< 生物の世界 U>

〜 今西錦司 〜


生物はたえずみずからをつくらねばならない
単に現状を維持するということさえもつくるということなくしては成り立たない。

酸素の一原子は体内にあろうとなかろうと同じ酸素の一原子であり
水の一分子だってやはりそうであるだろう。

酸素の原子はどこにあっても酸素の原子としての生命を
担っているといっていいわけであり
またこのような意味における生命とは
実際には酸素原子の現わす活動以外のなにものでもなかろうから
ことさらに物質的生命などというまちがいの起こりやすいような言葉を
使用するにもおよばぬであろうが
ただ酸素原子の現わす活動といっても
生物の体内にある酸素原子には全くの自由な活動が許されているわけでなく
生物体の現わす有機的総合作用に背反しないように
いわばある統制の下に活動しうるのみであるというところに
単なる物質的存在ないしは物質的生命と
その総合体としての生物ないしは総合作用としての生物生命との間の相違を
見逃さないようにしたいのである。

世界がどこまでも空間的時間的にこの世界でありつづけて行くのと同じように
生物もどこまでもこの構造的機能的な生物としての存在をこの世界につづけて行く。
そしてそのために生物は作られたものが作るものとなって
みずからと相似たものをどこまでもこの世界につくり与える。
細胞が細胞をつくって行くということは一個体の維持ということにほかならないし
個体が個体をつくって行くということは種族の維持ということにもなるが
それは細胞の立場においては細胞の維持であり
個体の立場においては個体の維持ということを
成り立たせるための現象であるとみなすことができるのである。

この生物がみずからを維持せんがためにたえずみずからをつくって行く
作られたものがまた作るものとなって行くということを生きることというならば
この生きるということこそは生物という有機的総合体における
指導方針でなければならぬ。

とにかくこの世界における生物は生きるということによって
この世界の生物たりうるのであって
それは大脳や精神作用をひっぱり出すより以前の
もっと根底的な原理的なものなのである。

だからわれわれが母体から生まれ出て
独立体系としてのわれわれというものをはじめて主張したときをもって
われわれの誕生とすることにも
まんざら意味がないわけでもないであろう。

環境といえどもやはり生物とともに
もとは一つのものから生成発展してきたこの世界の一部分であり
その意味において生物と環境とはもともと同質のものでなければならぬ。

環境なくして生物の存在が考えられないとともに
また生物の存在を予想せずして環境というものだけを
かんがえることもできないといったものが
すなわちわれわれの世界でなければならないのである。

生物は元来食物をとらねば生きて行けないから食物をとり
また敵から逃れなければ生きて行かれないから敵を見れば逃げるのである。
生きていくためには食物をとったり敵から逃げたりしなければならないということは
この世界において生物というものは一刻も活動を停止するわけには行かない。
生物の求めているものはじつは活動などということではなくて
この世界に安住しつねに平衡を保って静止していたいのかも知れぬ。
食物をとらねばならないというのはなにかこの平衡が得られていないから
それを得ようとする努力であるともいえる。
しかし食物をとったらそれではたしてよく平衡が得られたであろうかというに
今度はその食物が腹の中で消化されなければ平衡が得られないということになる。
食物が消化され吸収されたらそれでほんとうの平衡が得られたかというに
もうそのときにはまた食物をとらねば平衡が保てなくなっているというように
まるで時計の振り子のごとく瞬間的にまた断続的に平衡は得られようとも
生物にとって絶対の平衡などは望みがたいところである。
作られたものが作るものになるというのもやはりそうして行かねば
この世界に生物として存続できないからであり
だから生物が生きるということは生物が働くということにほかならないであろうし
生物とはいままでにもまたこれからさきにも
生きんとして働く存在でなければならないということは
これを簡単にいってしまえばつまり生物とは生活するものであり
生活しなければならないものであるということになる。

生物にとってはおそらくその日その日の生活が円滑に
進められて行くのがまずなによりも緊要であろう。

この世界は一つであっても
そこにいろいろな生物が存在しているということは
それらのいろいろな生物によってそれぞれにそのすんでいる世界の異なることを意味し
すんでいる世界の異なるということはすなわちそのすまう環境が異なるということであり
環境が異なるということはいい換えたならば
それらのいろいろの生物によってそれぞれにその環境の認識され方が
異なっているということにほかならないであろう。

食物と生物とはもともとはじめから切りはなせない存在であり
それほど生物にとって食物が身近き存在であったということは
食物というものがじつは生物体の延長であり
生物を養う源であったからである。
だから類縁ということをいうならば
食物と生物とではたとえ生物学的分類学的な類縁は問題にならなくとも
食物は生物にとってもっと直接的な身体的類縁であり
自分の身体の延長あるゆえに食物を認めるということはすなわち
自分を認めていることになるのである。

かゆいところをかくのも食物をとるのも敵をさけるのも
生物にとってみれば一々生きるためにしていることだとは
意識されていないのであって
それは多分かゆいからかき
食いたくなったから食っているにすぎないであろう。

生物の中に環境的性質が存在し
環境の中に生物的性質が存在するということは
生物と環境とが別々の存在でなくて
もとは一つのものから分化発展した
一つの体系に属している事を意味する。

生物の立場にたっていえば
たえず環境に働きかけ
環境をみずからの支配下におこうとして努力しているものが生物なのである。
環境のままにおし流されて行くものなら
われわれはなにもそこに自律性や主体性を認める必要はないのである。

花粉には眼がないけれども
花粉は同種類の花の柱頭に達したことを
なんらかの方法によって感知するのでなければ
このような受粉作用したがって繁殖の機構は達成されないであろう。

植物と動物、寄生と寄生虫、哺乳類と昆虫といっても
いまはかならずしも相対立したものではないが
もしそれらがすべてもとは一つのものから分化発展したものであるならば
その進化の途上でいつかこのような社会的対立の状態を
経過してきたものにちがいない。
このように相対立し
したがって棲み分けせざるをえないような社会のことを
私は生物の同位社会と名づけたのである。

もちろん類縁の近いものほど
その生活形が似ていて明確な棲み分けをするというのは原則的である。
とくにその環境が比較的に単調な場合ほどこの棲み分けが顕著に現れる。

同じ食物を求める動物は
お互いに時間的に棲み分けている場合が少なくないのであって
樹液に集まる蝶や蝿は強力なスズメバチのあらぬすき間をうかがって
その液をなめるのである。
こうした時間的棲み分けがさらに昼と夜との棲み分けにもなる。
時間的棲み分けの一種と考えられる季節棲み分けというのは
むしろもっと生活形の匹敵した
したがって同時期的存在のためにはどうしてもお互いの混在を
回避しなければならないようなもの同士が
同一場所を季節的に分割している場合が多いのである。

この地球上に生活する生物は
みんなして一つの生物共同体を構成しているのであり
その生物をその生活形にしたがってかりに
動物と植物と単細胞生物とに分かつとすれば
それらはそれぞれ動物共同体、植物共同体、単細胞生物共同体を
構成しているといわれなくてはならないであろう。

もとを糺せば一つのものから分化発展したいろいろな生物が
この地球上を
あるいはその一地域なり一局地なりを棲み分けることによって
お互いにお互いの生活を成り立たせているということだけを取り上げても
そこに共同体という言葉を使う意味が十分に含まれていると思う。

地球上はどこでも平等であるとしておこう。
そこに一種類の生物が存在し、一定の繁殖率をもって繁殖しはじめた
その結果として遅かれ早かれ地球上はその生物で一杯になる。
この飽和状態に達したときにその生物の繁殖率が減退して
以後はこの飽和状態を持続しうる程度の繁殖率に変化してしまうのであったならば
それでよろしいが
それではあまりにも生物らしからぬ消極策のような気もする。
だからといってもとのままの繁殖率を続ける場合には
この世がいわゆる生存競争の修羅場と化するだけであって
それも無益な抗争を好まぬ生物にとってはふさわしからぬことであろう。
だからこの矛盾の
生物らしい円満な解決というのは
その生物社会が食うものと食われるものとの分業に発展することによって
繁殖率を減退させずともその飽和状態を持続することにあるだろうと思う。
そしていわばこの量から質への変化を通して
実際は地球上の生物の絶対量も、増加したのである。
一つの社会が二つの社会になることによって
一種類の生物が二種類の生物になったのである。
私はこの仮説を簡単化するために地球上をどこまでも平等と考えたが
地球上が不平等ならこそ棲み分けが可能となり
そこに同位社会の成立も見たのであった。
しかし地球上の平等不平等にかかわらず
このような食物連鎖を通した種の分化形成が行なわれる可能性があってもよい。

安定した森林というものが
どこまでも整然とした複合同位社会の配列を示しているということは
すなわち自然に飛躍があるということであり
かりに世界じゅうの樹木を並べたとすれば
灌木から喬木までの移り行きが連続的になるとしても
灌木と喬木という二つの複合同位社会の具体的な存在のあり方は
どこまでも非連続的であるということである。
そしてその非連続さはどこまでも灌木と喬木との大きさの非連続さによって
このように直截的に表現されているものとしなければならないであろう。

個体が種の中に含まれているといえるとともに
どの固体の中にも同じように種が含まれている。
どの固体からでも種はつくられて行く可能性がある。
個体はすなわち種であり種はすなわち個体である。
種は個体に対してかならずしも優位を占めるものではない。

生物が生きるということは働くということであり
作られたものが作るものを作って行くということである。
個体の生長にも世代の連続にも
理論的には単なる繰り返しというものはなくて
どこかにかならず新しいものが作られているであろう。
進化は創造であり
創造性は生きるものの属性であると考えられねばならない。

生物というものは、その身体を唯一の道具とし
また手段として生きていかねばならないということである。
しかもその身体というものは親譲りの身体であり
その身体のうちに
かれの祖先たちが経験してきた歴史のすべてが象徴されているともいえよう。
過去はどうすることもできないという意味において
この身体はどうすることもできないものである。
それはすでにつくられたものであり
与えられたものである。

ところで環境の主体化はつねに主体の環境化であった。
身体の環境化であった。
生物自体はかりに自由な創造性をもっていたとしても
その創造性を限定するものが環境であった。
だからその意味では作られたものとしての環境が逆に生物を作ったともいえる。

ひとはよく自然は単なる繰り返しであるにすぎないなどというが
それは抽象された法則的自然のことであるだろう。
われわれとともにある具体的自然というものは法則的自然ではない。
生物もこれを自然として見る以上
少なくともこのような進化の事実を
ただ単なる自然の繰り返しといってしまうわけには行かないものがある。
生物一般に人間のような個性を認めるわけには行かないかもしらぬが
生物の種には種の個性があり、種の歴史がある。
歴史を自然に対立させ
歴史を人間だけのもののように考える人たちの反省を促す必要がないであろうか。

さて私はさきほどの問題の回答をここで簡単にしておかねばならない。
人間のつぎに世界を支配するものはなんだろうか。
おそらく人間の支配はまだまだつづくことだろうが
人間の発展にも限度があると考えられてよいと思う。
しかし心配しなくてもいまの人間に代わって立つべきものは
(もはや人間と呼ばれるべきものでないかもしれぬが)
いまの人間の中に胚胎されていなければならぬ。
いまの人間の中からつくり出されねばならぬ。
それが進化史の教えるところである。

人間は自分の気に入ったものを残し
気に入らないものを抹殺していった。
そうして自分の望むような飼育生物を人間がつくっていったことを
人為淘汰というのである。

生きるということは死ぬということに対している。
いや生物が生きるといった場合には
この生きるか死ぬかのうちで生物が生きることを選んだから生きているのだともいえる。
なぜ生きることを選んだかといえば
それは生物存立の根本原理が
この世界存立根本原理によって導かれているからである。
だから生物が生きることを選ぶのは必然的なものかもしれないが
その必然性の背後には選択の自由ということがどこかしらにおぼろげながらも
感ぜられはしないであろうか。
具体的にいえば
生物が食物を取るのも、敵を避けるのも、配偶を求めるのも
みな生きるための必然がしからしめるところではあろうが
食物も敵も配偶もみなこれ一種の環境である。

環境は生物のほうから働きかけてこそ生物を生かすものとなるが
生物がもし働きかけなかったならばおそらく環境は生物を殺し
これを単なる物質に変えてしまうであろう。

結局環境に淘汰されていわゆる優勝劣敗の優者しか残りえないものとするならば
生物のやっていることは創造ではなくて投機である。
進化は必然の自由によってもたらされたものではなくて
偶然の不自由に由来するものである。

生物が生きるということは身体を通した環境の主体であり
それは逆に身体を通した主体の環境化であるといったが
このように自由にして自由ならざるものが身体であり
この自由と必然の相克を通して新たなる身体が創造せられる。

生物とは生きるか死ぬかにおいて生きるほうを選ぶものであるということだけで
生物の生活はすでに方向づけられている。

生活する生物は生活の方向をもっている。
それは生物によって決定されたものでも環境によって決定されたものでもない。
それは必然の自由によって決定される創造の方向性である。

親の身体に無限な生活力・適応力・創造力がないからこそ
子供の身体に変るのである。
その子供の身体がよりよき生活に適する変異を備えておればそれでよいのである。
またかならずしもその親のその子供という限定があるわけではない。
種全体から見て
その固体の中によりよき生活に適する変異が増しつつあればそれでよいのである。

そもそも種とはなんであったか。
それは一つの血縁共同体として同じ身体をもつゆえに同じ生活をなし
同じ生活をなすゆえに同じ身体をもった個体の地域的な広がりであった。

人間だって直立してからもうずいぶんになるが
脚の骨などを詳しく調べてみると
まだ完全にその直立姿勢には適応できていないといわれている。
けれども生物と環境とを媒介するものとして
身体はつねに適応へと導かれて行くのが生活原理であるといわねばならない。
だから適応はまた生活の必須部分からさきにはじまるということも考えられるであろう。

ひとはよく生物といえば
生まれてから死ぬまで四六時中生きることに追い回されているもの
食欲とか性欲とかいったいわゆる本能生活以外に生活のないもののように考えてきたし
私もまた生物の生活はその指導原理が生きるということにあるといって
いままではその立場から生物を解釈するように努めてきた。
しかしそのような解釈だけで生物の現わす生活のすべてが理解できるであろうか。
生物の生活ははたして浅ましい畜生道に終始しているであろうか。
そもそも生物がそのようなものであるとしたら
花はなぜ美しいのであろうか。
蝶はなぜ綺麗なのであろうか。
四六時中あくせくとしてパンのことを考えねばならないというのは
じつは生物の世界に叛き
生物の世界から離脱した人間のことであって
生物の世界における生物共同体の成員たちは
お互いにその地位に安んじその職場を守っているかぎり
ただ生活というだけを考えれば人間よりはるかに
その生活は保証されたものでなかろうか。
もちろんそこには敵もあり病気もあろう。
そかしそういった生活の否定面ばかりでなくて
もっとその肯定面が考えられないであろうか。
適応の発達も社会組織の発達も
生物の求めたよりよき生活というのが
元来はその生活の保証なり
無益な抗争の回避なりに起因していたことには異議を申し立てようとは思わぬ。
だが生活の保証された生物にとってのよりよき生活とはなんであったろうか。
生物は怠け者で食って寝ているうちに
求めもせぬのに知らぬまに美しくなったのであろうか。
私はもちろん生物が美のなんたるかをわれわれ同様に解しているとは考えはしない。
しかし生物もしくは生物の生活というものの中には
ただ単に生きんがためということをもってしては
どうしても解釈できない一面があるということを
ここで素直に認めておきたいと思う。
その一面とは生物が意図するとしないとを別として
生物が次第に美しくなって行った
よく引き合いに出される例でいえば
中世代の海にすんだアンモン貝の貝殻に刻まれた彫刻が
時代を経て種が生長するにしたがい次第に緻密に繊細になって行ったというが
そこにはいわば生物の世界における芸術といったようなものが
考えられはしないであろうか。
もちろんわれわれ人間の場合と同じではないが
そこにいわば生物の世界における文化といったものがあるのではなかろうか。

種は雑交しないから種であり、素質の純潔を守るから種なのである。

自己完結性といえば個体の再生現象のごときもそうであろうし
また植物社会に認められる天然更新のごときもその一つの現われといえよう。
だが進化における自己完結性はつねに創造の自己完結性であった。
それぞれの生物がそれぞれに
花も蝶も美しくなっていったということには
個体の進化における自己完結性が考えられないであろうか。

滅び行く者もまた世界に触れているのである。
広義に解すればそれはやはり
世界の立場における一種の新陳代謝でもあるだろう。
ただ私として最後にこんなことを持ち出してきたのに対しては
私が自然淘汰を認めんとするこの明らかな例においてさえ
自然淘汰はかならずしも種の起原という問題とは直接に結びついていないことを
注意すればよかったのである。



生物の世界 T





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