< 生物の世界 T>

〜 今西錦司 〜


この世界を構成しているいろいろなものが
お互いになんらの関係で結ばれているのでなければならないという根拠が
単にこの世界が構造を有し機能を有するというばかりではなくて
かかる構造も機能も要するに
もとは一つのものから分化し、生成したものである。
その意味で無生物といい生物というも
あるいは動物といい植物というも
そのもとを糺せばみな同じ一つのものに由来するというところに
それらのものの間の根本関係を認めようというのである。

この世界には結局厳密に同じものは二つとはないはずである。

このわれわれさえが
けっして今日のわれわれとして突発したものでもなく
また他の世界からやってきた、その意味でこの世界とは異質な存在でもなくて
われわれ自身もまた身をもってこの世界の分化発展を経験してきたものであればこそ
こうした性質がいつのまにかわれわれにまで備わるようになった。

いったいいつでもそうだが
われわれ人間のことが問題になると
いやにむずかしい面倒くさいことになりがちであるが
生物の立場はいつだって素直で、朗らかで
やはり私の性分にあっているようだ。

この世界を成り立たせているいろいろなものは
すべて一つのものの生成発展したものにほかならないということが
これらのいろいろなものが類縁関係を通じて結ばれているゆえんなのである。

人間もまたこの世界を成り立たせている他のいろいろなものと同じように
もとは一つのものから生成発展したということは
人間がいくら偉くなったって消し去ることはできない。

人間も動物も植物も生物であるという点では
お互いに類縁関係のつづいた相似たものなのであるから
かれらが根本的には相似た性質をいくら持っていたからとて
それはすこしも不当でないばかりでなく
むしろこうした相似た性質の存在を認め
それをわれわれの言葉によって
われわれに理解されるように適切に表現する
ということがすなわちわれわれの生物に対する認識の表現であり
このように生物を生物の立場において正しく認めるということがまた
われわれをわれわれの立場において正しく認めることにもなるのである。

われわれの祖先にしてみれば
かれらに身近なものとしての
肉眼で見える動植物の存在を認識すれば
それで必要かつ十分であったかもしれないが
かれらに縁遠い地球の隅々までも調査されて
そこからかれらの夢想だもしなかったような
いろいろな珍奇な動植物の存在が明らかにされ
またかれらが全然その存在を認めなかったような
微細な生物の存在が顕微鏡によって見いだされ
しかもそれらの微生物の存在がわれわれの生活に重大な関係を
持ったものであることがわかるようになったのは
酸素や水素の存在がわかるようになったのと同じように
近世以来のことでなのある。

ところで生物の形というが
生物とは外形だけあって中の空ろなものでもなければ
また粘土細工のように中の一様につまったものでもない。
このことは生物を解剖してみればただちにわかることであって
そこには筋肉、血管、その他いろいろな内臓器官が備わっている
しかもそれらがでたらめに乱雑につっこまれているのではなくて
ちゃんと一定の秩序をもって巧妙に配置されている。
生物の見かけの形を外部形態ということにすれば
そこには外部形態に対して内部形態といいうるようなものがあるわけである。
そしてこの内部形態だけを見ると
生物の外部形態なるものは
内部形態によって規定せられ
まるでこの内部形態をつつむためにできているもののように思われるけれども
反対に外部形態の立場から見るならば
内部形態のほうが外部形態に規定され
外部形態にうまくはまりこむようにできているともいいうるのである。
しかしもちろん一匹の生物にとっては外部形態がさきにあるのでも
内部形態がさきにあるのでもない。
はじめから外部形態も内部形態も備わったものにして
はじめて生物なのであり、生物の身体なのである。
外部形態といい内部形態というも
要するにそれらのものが一つになって生物の身体を組み立てているのである。
それはもはや形といわんよりもむしろ構造である。
それがすなわち生物の構造にほかならないのである。

犬たると松の木たるとアミーバたるとを問わず
あらゆる生物の身体が細胞の集まりからできてあがっているということは
いろいろな点からして生物というものをわれわれが理解する上に役に立つ
生物のもっとも生物的な性格の一つであるように思われる。

われわれのような多細胞生物にあっては
その体を形づくっている細胞の数は
それこそ数えきれぬほどの多さであろうが
そもそもこの無数の細胞とはどこからやってきたものであろうか。
どこからやってきたものでもない。
それらはすべてもとは一個の細胞から生成発展したものにほかならないのである。

生長するということはすなわち生きているということにほかならないということになって
結局生物の形といい生物の構造というも
それらは生きた生物をはなれては考えられない。
いやしくも生物という以上はその具体的な存在のあり方として
つねに生きているということを前提しないでは
もうなに一つ考えられないのではないかとさえ思われる。

生きた動物が飛んだり泳いだりするのはその動物が生きているからである。
それがすなわち生きているということなのである。

それはむしろ構造に対して機能と呼ばれるべきである。
しかしもちろん構造をはなれて機能を発揮しうる構造であってはじめて
生きた生物の構造なのであり
そうした構造であってこそまた生物はそれに応じたいろいろな機能を
発揮することによって、生きているといいえられるのである。

生物というものは構造だけの存在でもなく
また機能だけの存在でもない。
構造と機能とが密接な関連を持っているといっても
構造というものと機能というものとが別々に存在しているのではない。
構造がすなわち機能であり
機能がすなわち構造であるようなものであってはじめて
それが生きた生物といわれるものである
ということになる。

一つの生物が生きているというときには
それはつまりこの有機的総合体の有機的総合作用をさすのであり
生物が死ぬということはすなわちこの有機的総合作用の破綻を
意味するものと考えればよいと思う。
だから生物の現わすこの有機的総合作用の持続がすなわち生命の持続なのである。

生物は死んだ瞬間からその身体が解体をはじめるであろう。
生物がもし生きたものとしてこの世界に存在しようとするならば
この解体に抗してその身体を維持し
その身体を維持するためにはその身体を絶えず建設して行かねばならぬ。
そこに生物とはみずから作るものであり
生長するものであるといわれるとともに
それがまた生きているということにもなるのである。
たとえ個体的成長のとまった生物にあっても
その身体では古くなった細胞がつねに新しい細胞でおきかえられている。
去年の身体昨日の身体はそれゆえ今年の身体今日の身体とは同じでない。
これを新陳代謝というが
この作られたものがつねに新しいものを作って行くというところに
生物が構造的即機能的であるといっても
そのとくに生物的な特質を見るように思われる。

生命と身体とを別々にみる考え方は
時間と空間とを別々なものと考えるのに等しいであう。
生物がこの世界に生まれ
この世界とともに生成発展してきたものであるかぎり
それが空間的即時間的なこの世界の構造原理を反映して
構造的即機能的であり
身体的即生命的であるというのが
この世界における生物の唯一の存在様式でなければならぬと考える。
しかしながらこの世界を形づくっているものはなにも生物だけではない。
無生物だってやはり同じようにこの世界の構成要素である。

無生物といえどもけっして不変の存在ではない。
無生物といえどもこの世界においては万有流転の除外例とならないであろう。

一般に無生物は動かない、変化しないと考えるのは
われわれのようにたえず動きまた変化するものの立場に立って
無生物を見ているからであり
つまり生物と無生物との相違に立脚したものの見方をしているからである。
しかし無生物だって単なる構造的存在でありえないということは
物理学の最近の進歩が
もっとも有力にこれを物語っているのではあるまいか。
第一物質構造の単位である原子の構造などというものが
けっして静的なものではないのである。
われわれの太陽系だってけっして静止してはいない。
太陽自身もぐるぐると自転しているのである。
それらの運動を習慣上アクションとはいっても
生物の場合のようにファンクションとはいわないが
大は太陽系から小は原子にいたるまで
いやしくも構造の認められるものというものは
かならず単なる構造だけの存在ではなくて
そこにその構造に即した活動を伴っているということが
そもそもなにを意味しているのだろうか。
それはいうまでもなく
この世界が空間的即時間的な世界であるがゆえに
単なる構造だけの存在といったような
存在のあり方が成立しえないからであろう。

生物的身体といい生物的生命というも
無から有が偶発したものではない。
すでに一個の細胞として存在していたときでさえ
それは構造的即機能的であり身体的即生命的な生物的存在であったのである。

生物の起源はどこまでさかのぼっても生物的であり
かくして生物は生物のみより生まれるという法則の成立を見るにいたったのであろう。
生物は死ぬことによってつねに無生物たりえても
無生物はついにこの世界においては生物たりえないものときめてしまって
だれも不思議に思うものがなかったのである。
しかしながら生物というものがはじめからこの世界に
存在していたのでないことが確かであるならば
われわれにとって生物の起源はつぎの二つのうちのどちらか一つを
選ぶよりほかに考えようはないのである。
一つは
無生物の境に生物が偶発した
したがって生命もそのときに偶発したとするものであって
それは無が有に変換し、たった一度でよいが
この世界の歴史においてそのときには
無が有に変換するようなことが起こったという考え方である。
いま一つの考え方というのは
無から生じない、無生物と生物というから無と有ということになるが
無生物だってこの世界の構成要素である以上
構造的即機能的な存在である。
その無生物的構造が生物的構造に変り
無生物的機能が生物的機能に変るということが
無生物から生物への進化であった。
これと同じように解釈するならば
生命だって無から偶発したものではなくて
やはり無生物的生命が生物的生命へ進化したものだということになる。

いったいわれわれの身体の生長とはわれわれの周囲からものを取り入れることによって
はじめて成り立つところの現象である。
この取り入れるものというのは確かに無生物であり、物質である。
しかもこれをわれわれがわれわれに同化することによって
われわれの身体はつくられて行くのである。
われわれはこの場合けっして無から有を生ぜしめているのではなくて
有を有に変えているだけであろう。

人間・動物・植物・無生物はすべてこれこの世界の構成要素であり
同じ存立原理によってこの世界に存在するものであるということができる。

生命といっても一様なものではなくて
やはり無生物的生命・植物的生命・動物的生命ないしは
人間的生命といった相異が認められることを忘れてはならないのである。
そしてこのように世界を形成するところのいろいろなものが
本質的に相似たものでありながら
どこまでも相異なっており
どこまでも相異なっておりながらも
それによって有無相通ずるというところに
それらのいろいろなものがもとは一つのものから生成発展した
この世界の性格ともいうべきものがうかがわれるのである。



生物の世界 U





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