< E・フロム語録 >
(1957年8月 メキシコ自治国立大学医学部精神分析学教室の
主催で開かれた「禅仏教と精神分析学」の研究会議)


禅仏教と精神分析との関係を見ようとするのであるが
この二つの体系とも、人間の本性に関する理論と
その”最良の状態(well-being)”に導く実践とを中心としたものである。
そして、この二つはそれぞれ東洋思想と西洋思想との特徴をよく表現している。
禅仏教はインドの合理性と抽象性と
シナの具体性と現実主義との一つの渾然たる融合である。
禅が東洋的であるように、精神分析はまた格別に西洋的である。

精神分析はその核心において科学的方法であって宗教的なものではない。
しかるに禅は西洋では宗教的または神秘的といわれる体験である。
”エンライトンメント(開悟)”を成就する理論であり技法である。
精神分析は心の病に対する治療法であるが
禅は霊的救済への一つの道である。

西洋の精神分析家の間には禅仏教に対する紛れなき関心が高まってきている。

西洋に住んでいる人々の大部分は
自分たちが西洋文化の一つの危機に生きることを自覚していない
(おそらくいつの時代でも根本的な危機の状況にある人々の大部分は
この危機に気づかなかったと思う)。
とはいえ、少なくとも相当数の批判的な観察者の間には
この危機の存在と性質について一致するものがある。
それは”不安””憂鬱””世紀の病””気喪失””人間の自動機械化”
”人間の自己からの、仲間からの、自然からの疎外”などと呼ばれる危機である。
人間は合理性を追求して合理主義がまったき非合理性に転落するところまで
押してしまったのである。

知性による自然の統御、そしてますます多くの物の生産が人生の最高の目的になった。
この過程において人はみずからを物に変貌させ
生は所有物に従属せしめられるに至った。
ある”ことは”持つ”ことに支配されるに至ったのである。
西洋の文化の根源はギリシャもヘブライも
人生の目的を『人間の完成』に置いたが、現代人は『物の完成』と
いかにしてそれを造るかの知識に第一の関心をよせている。
西洋人は感情経験に対し精神分裂病的無能力の状態にある。
それで彼は不安であり、憂鬱であり、絶望的である。
彼は幸福とか、個人主義とか、主導性とか
りっぱな口先だけの目標はかかげるけれども本当は目標がないのである。
何のために生きているのか
彼のあらゆる努力の目的がなんであるかと尋ねられると
彼は当惑するに違いない。
ある人は”家族のために生きている”とか、またあるものは、”楽しむために”とか
またあるものは”金を儲けるため”とかいうだろうが
実際のところ何人も何のために生きているか知らないのである。
彼は不安と孤独をのがれようとする要求以外には目標をもたない。

教会の会員数が今日、今までになく多数となり
宗教に関する書物がベストセラーとなり
今までになく多くの人々が神について語るようになったことは確かである。
しかし、この種の宗教的な信仰告白は
深い物質主義的な非宗教的な態度をおおい隠すだけのもので
ニーチェも彼の有名な”神は死せり”の宣言で特徴づけた十九世紀の傾向に対する
観念的な反動(不安と追随とによってひき起された)と理解さるべきものである。
真の宗教的態度としてはおよそ実態のないものである。
十九世紀における有神論的な考えの放棄は(一面から見れば)
少なからず功業であった。
人は客観性に向かって大きな踏切りをしたのである。
地球は宇宙の中心ではなくなり
人間はすべての他の被造物を支配するように神によって定められた被造物という
中心的な役割を失った。
人間の中にかくされた動機づけを新しい客観性によって研究したフロイトは
全能全知の神々の信仰はその根源を人間の存在のたよりなさそのものの中に
天における神として表わされる助けを与える父または母への信仰によって
その恐れと戦おうとする人間のはかない試みにあるということを見た。
彼は人間は自分だけが自分自身を救うことができることを知ったのである。
偉大なる教師の教え、両親、友だち、愛する人などの愛情が彼を助けることができる。
しかし、それはただ実存の挑戦をあえて受け入れようとし全身全力をあげて
これに対応しようとするのを助けることができるだけだということを知ったのである。
人は親代わり援助者としての父なる神の迷妄を放棄したが
しかし同時にすべての偉大なヒューマニズム的な宗教の真の目標をも棄ててしまった。
すなわち、利己主義的な自我の克服、愛、客観性、謙虚、生の尊敬
人生の目的に対する真剣な考慮、人の本来性の発揮等の目標をも
合せ放棄してしまったのである。
それらのものは偉大な東洋の宗教の目標であったと同様
偉大な西洋の宗教の目標でもあった。
東洋はしかしながら、一神教的な宗教が希求した超越的な父=救世主たる
神の概念の重荷をもたなかった。
道教と仏教は西洋の宗教よりすぐれた合理性と現実主義とを持っていた。
彼らは人間を現実主義的に客観的に
すなわち”覚者”以外の何人も彼を導くものとてはなく
また何人も自分の中に目覚め、悟りを得る能力をもつがゆえに
導かれ得ると見たのである。
これがまさに東洋の宗教思想、道教と仏教(並びに禅仏教におけるその融合)
が今日西洋にとってこのような重要性をもってくるゆえんである。
禅仏教は人間にその存在の問題に対し解答を見出すことを助ける。
その答えは、ユダヤ=キリスト教の伝統においても
与えられたものと本質的に同じであるが
しかも現代人の努力の貴重な成果である合理性、現実主義
並びに自主性に矛盾しないところのものである。
皮肉にも東洋の宗教思想は西洋の宗教思想以上に
西洋の合理的思想に一致するものであることがわかってきたのである。

フロイト自身の体系は”病気”と”治療”の概念を超えており
精神的に病んだ患者への治療だけに関するよりもむしろ
人間の救済にかかわっているということを示したいと思う。

彼の目標は理性によって非合理的、無意識的な情念を支配することであり
人間の可能性の範囲において無意識の力から人間を解放することであった。
自分の中にある無意識的な力を支配し
統制するためには、それを自覚しなければならない。
フロイトの目標は真実に関する最善の知識であり、それは現実の知識であった。
この知識はフロイトにとって人間がこの地上において持った唯一の導きの光であった。
これらの目標は合理主義、啓蒙主義の哲学および
清教徒的倫理の伝統目標であった。
宗教や哲学は、これらの自己統制の目標を”ユートピア”的ともいえるやり方で
要請したのに対して
フロイトはこれらの目標を(無意識の探究)科学的基礎の上に置き
従ってその実現への道を示したあるいは最初の人であると、彼は信じた。
フロイトは西洋の合理主義の最高点を代表するが
合理主義の偽りの合理主義的、或いは表面的に楽観主義的な面を克服し
まさに十九世紀において人間の非合理主義的情意的側面に対する
興味と尊敬によって合理主義に反対した運動
ロマンティシズムと総合を創り出そうとしたのは彼の天才であった。

「結局、分析家と患者との関係は”真理の愛”に
すなわち現実の承認に基いていること、それはいかなる種類のみせかけ
或いは欺きでもこれを排除するということを忘れてはならない」
byフロイト

フロイトの精神分析学の概念の中には
病気の治療の通常の概念を超える他の要因がある。
東洋思想に明るい人々、特に禅仏教に親しんでいる人々は
私がのべようとしている要因が
東洋の心の概念や思想と無関係ではないということに気付くであろう。
ここで第一に挙げるべき原理は
知識が変換に導くこと、理論と実際とは分離してはならないこと
自分自身を”知る”というそのことにおいて
人は自己を変形するというようなフロイトの概念である。
このような考えが、知識それ自身は理論的知識以上のものではなく
知る人を変革させるようなことはないというフロイトの時代または
我々の時代における科学的心理学の概念とは
いかにちがったものであるかを強調する必要はいまさらあるまい。
もう一つの面においても
フロイト方法は東洋思想、特に禅仏教と密接な関連を持っている。

フロイトの方法は現代の”価値”の概念とか手段と目的の関係
貸借対照表といったものの概念を超越するときにのみ意味がある。
もしも一人の人間が
いかなる物をもってしても割り切れるものではなく
人間の解放”最良の状態”、彼の悟り
或いはいかなる言葉を我々が使おうとも
そういうものはそれ自身として”究極的”なものであるという立場をとるならば
いかなる時間も、いかなる金額も、この目標に対して量的に関係づけることは出来ない。
一人の人間にこのような長期間の関心を含んでいる方法を
工夫する夢と勇気をもっていたということは、
重要な面において西洋の因襲的な思想を超越した態度の表れであった。

私が示そうとしたのは
禅仏教に対するこれらの明白な矛盾にかかわらず
フロイトの体系の中には因襲的な病気と治療の概念や意識の
伝統的合理主義的概念を超える要素があったということである。
そしてこれらの要素は、禅仏教の思想ともっと直接的な積極的な近似性、関連性をもつ
精神分析を発展させたようなものであった。

”世紀の病気”に悩む人々に対して
精神分析の提供し得る助けはなんであろうか。
この助けは、社会的に働きが出来ない人に課された症候をとりのぞくという
”治療”とちがうものであり、またちがったものでなければならない。
疎外に悩む人々にとって、治療は”病気がない”ということではなくて
”最良の状態が現存する”ということである。

”最良の状態”とは人間の本性と一致していることである。

人間はその生を生きなければならない。
生によって生きられるのではない。
彼は自然の中にいるがなお自然を超越する。
彼は自分自身を自覚している。

問いは常に同じである。
しかし答えはいくつかある。
或いは、根本的にはただ二つの答があるだけである。
一つは自覚が始まる前に
すなわち人間が生まれる前に存在していた統一の状態への退行によって
分離性を克服し、統一を見出すことである。
他の答えは
十分に生まれることであり、自分の自覚、自分の理性、自分の愛する能力を
自分自身の自己中心的な関与を越えて新しい調和、世界との新しい合一に
到達する点まで発展させることである。

出生というものは一つの所作ではない。これは過程である。
生の目標は、十分に生まれるということである。
その悲劇は、我々の大部分のものがこのようにして十分に
生まれるよりさきに死んでしまうということであるが。
生きるということは刻々に生まれることである。
この出生という過程が停止するときに死が起こるのである。

彼らは共生的に彼らの父母や家族、民族、国、地位、金、神などというものに
強制的に結びつけられたままである。
彼らは彼ら自身として十分に発展することができず
かくして彼らは十分に生まれることが出来ない。

全知全能の自己愛的な態度に打ちかつためには
十分に成熟が進む必要がある。

”最良の状態”とは
理性が十分な発達において到達される状態である。
その理性は単なる知的判断の意味においてではなくて
”物をありのまま”にしておくことによって真理を把握するという意味においてである。
”最良の状態”は
人がその自己愛を克服した程度に応じて
人が(禅の意味において)開かれ、反応的となり、感受的になり、覚醒し、空虚に
なる程度においてのみ可能である。
”最良の状態”というのは
人間と自然に対して情意的に十分に関係づけられ、分離と疎外とを克服し
存在するところのすべてのものと一つになる経験に到達し
しかも私自身を同時に分離した存在、私として、分割されぬもの
すなわち個人として経験するということを意味する。
”最良の状態”とは
十分に生まれること、人が潜在的にあるところのものになることを意味する。
それは喜びや悲しみに対する十分な能力を持つこと
言葉を換えていえば、通常の人間が生きている半睡状態から覚醒して
十分に覚醒していることを意味する。
そうだとすると、それはまた創造的であることを意味する。
すなわち私自身、他の人々、存在するところすべての物に対して反応し、答えること
私があるところの現実の全人として、あるがままのすべての人
すべての物の現実に対して反応することを意味する。
”最良の状態”は最後に
自分を我をすてることを意味する。
貪りをやめ、我を保存し拡大しようとたえずつとめることをやめることである。
自分の自我というものをただ保存すること、むやみにほしがること
用いることなどにおいてでなく、あるというはたらきにおいて自分の自我を
経験することを意味する。

全人として”究極の関心事”とする人は”宗教的な人”であり
このような答を与え、教え、伝えようとするすべての体系は”宗教”である。
これに対してこの実存的な問題に対して耳を傾けようとしない
いかなる人も、いかなる文化も反宗教的である。
この存在によって課せられた問いに耳をかさない人の一番よい例は
二十世紀に生きる我々自身である。
我々は財産、威信、力、生産、慰みなどの関心により
究極的には我々(その自我)が存在するということを忘れようとすることによって
問いを回避しようと試みる。
いかにしばしば彼が神のことを思うとも、或いは教会に行こうとも
いかに多く彼が宗教的な観念を信じようとも
彼すなわち全人がこの存在の問いに耳をかさないならば
これに対してなんらの答をもたないならば
彼はただ時を刻んでいるにすぎない。
彼は彼が生産する無数の物の一つのように生き、死するにすぎない。
彼は神の存在を体験する代わりに神を考える。

ユダヤ的・キリスト教的な考え方と
禅仏教的な考え方とに共通することは
完全に開かれ反応的であり、覚醒的であり、生きているためには
私の”意志”
(私の外の世界と私の内の世界を強制し指示し締上げようとする私の欲求の意味での)
を放棄しなければならないという自覚である。
禅のいい方では”自分自身を空にする”としばしばいわれる。
それは消極的な何かを意味するのではなく、受容に対する開放性を意味する。
キリスト教のいい方では、しばしば”自分を殺して神の意志をうけいれる”といわれる。
これらの違った表現の背後にあるキリスト教的経験と
仏教的な経験の間には大きな違いがないように思われる。
しかしながら、通俗的な解釈や経験に関するかぎり
このいい方は自分自身で決定をなす代わりに
決定を、自分を見守ってくれ、自分にとって何が善であるかを知っている
全知全能の父にまかせるということを意味する。
この経験においては、人は開かれ反応的にならないで
服従的で従属的になるということは明白である。
自我主義(エゴイズム)の真の降伏の意味において
神の意志に従うということは
むしろ神の概念がないならば、最もよくなされる。
逆説的ないい方をすれば、私が神を忘れるならば
私は真に神の意志に従うことになる。
禅の空概念は、助けを与える父という偶像崇拝的な概念に退行する危険性なしに
自分の意志を放棄するという本当の意味を含んでいる。

精神分析的なアプローチにおける最も特徴的な要素は疑いもなく
無意識的なものを意識的なものにすること
或いはフロイトの言葉でいえば
イドをエゴ(自我)に変えようとすることである。

フロイトの地下室は主として人間の悪徳を蔵しており
ユングの地下室は主として人間の智慧を蔵している。

朝早く空気がまだ冷たい時に、バラの蕾をみたり
その上の露の一滴をみたり、太陽が上がり
鳥がさえずるというようなことをみるような経験になると
それはある文化においては(たとえば日本においては)
容易に気づかれやすい経験であるが
現代の西洋の文化においてはこの同じ経験は特に注目すべきほど”重要”でもなく
また”特別の出来事”でもないということで気づかれることは通常ないのである。

一つの社会が人間的な生活の基準に近づけば近づくほど
社会からと人間からとの孤立の葛藤が少なくなる。

無意識の内容は善でも悪でもなく
合理的でも非合理的でもなくその両方である。
人間的なものはすべてである。
無意識は全人から人間の社会に対する部分をひいたものである。
意識は社会的人間すなわち個人が投げこまれた歴史的状況によって
加えられる偶然的な限定を表している。
無意識は宇宙に根ざす普遍的人間、全人を表している。
それは彼の中にある植物を、動物を、精神(霊)を表している。
それは彼の過去を人間存在の曙にまで立ち戻って表しており
彼の将来を、人間が充全に人間的となり
人間が”自然化”されるのと同じように自然も人間化されるその日までを表している。

無意識を意識的にするということは
人間の普遍性という単なる観念をこの普遍性の生きた体験に転換させる。
それはヒューマニズムの体験的実現である。

人が意識しているというところものの大部分は虚構である。
そして彼が抑圧するところのもの(すなわち無意識のもの)はほんとうである。

分析家は”手本”になり”教師”になり、自分自身と患者との間の関係を
おかなる種類の”偽り”や”ごまかし”をも排除するところの”真実の愛”に
基くようにする必要があるといっているからである。
フロイトはここで分析家は患者に対する関係において
通常の医者の機能を超えるものを持っていると感じていたように見える。

分析家は患者を分析する。
しかしながら患者がまた、分析家を分析する。
なんとなれば、分析家は彼の患者の無意識を共にすることにおいて
彼自身の無意識を明らかにさざるを得ないからである。
それゆえに分析家は、患者を治すだけでなく、また、患者によって治される。
彼は患者を理解するだけでなく、結局患者も彼を理解してくる。
この段階が到達されるときに連帯を親交が達成されるのである。

分析家であろうと何人であろうと、他の人を”救う”ことは出来ない。
彼はガイドとして、または産婆として働き得るだけである。
彼は道を示し、障害物を除き、時には、ある直接の助けを与えるけれども
患者のみが自分でなし得ることを患者のためになすことは出来ない。

禅の根本的な目標はなんであるのか。
それを鈴木大拙博士の言葉で述べると
『禅は本質において自己の存在の本性を見通すところの術である。
それは束縛から自由への道を指している。
・・・禅は我々のおのおのの中に本来自然にたくわえられたすべての
エネルギーを解放するということができる。
このエネルギーはふだんは拘束され、歪められていて
自由に活動する通路を見出せないでいるのである。
・・・それゆえ私のいう自由の意味するところのものであり
本来われわれの心の中にそなわっている創造的な
慈悲深い衝動のすべてが自由に活動することができるようにすることである。
一般にわれわれは本来われわれを幸福にし
互いに愛し合うようにするための必要な能力をそなえているという事実に盲目である』

サトリは心の異常な状態ではない。
それは現実が消失する恍惚状態ではない。
ある宗教的示現に見られるような自己愛のような
自己の殻に閉じこもった心の状態でもない。
「もし何かであるとすれば、それは、完全に正常な心の状態である」

「真理を身につけようと努力されることがありますか」
「ある」
「どうするのですか」
「飢えては食い、疲れては眠る」
「それは誰でもすることです。
それでは誰も皆あなたと同じやり方で自分を働かしているということができますか」
「否」
「なぜちがうのですか」
「なぜならば彼らが食う時は、食うのではなく、他のいろいろのことを考えている。
彼らは自分を乱れたままにしている。
彼らが眠る時は、彼らは眠っているのではない。無数のことを夢みているのだ。
それゆえ彼らは自分と同じではないのだ」

禅における自己を知ることは知性的ではない。
疎外していない、すなわち
知る人と知られるものが一つであるところの全幅的体験である。

「説明や議論をいくら積み重ねても
もしその人自身があらかじめ体験したことがなければ、他に伝えることができない。
もしサトリが分析によって、体験していない人にも
完全に理解されるように分析にかけられるのなら
そのサトリはほんもののサトリではない。
概念に代えられたサトリはもはやサトリではなくなっているからである。
そうなるともう禅の体験ではなくなっている」

「禅は聖典や学者による聖典評釈にもなんら本質的な重要性を与えない。
個人的な経験が強く権威や客観的啓示に反対して働いているから・・・」
禅においては、神は不定もされないし、また、それを強要もしない。
「禅は絶対の自由を求める。神からすらも」
それは仏からさえも同じく自由を求める。
それゆえに禅の言葉はいう
「仏という言葉を語った時には汝の口をすすげ」
と。

「師匠ができうるすべてをもってしても
もし弟子が十分にそれを受け入れる用意ができていなければ
師匠は弟子にそのものをつかませる術がないのである。
・・・究極の実在をつかむことは自分自身でしなくてはならない」

禅に生きることは
「自分自身および世界を最も大事にする敬虔な心の枠の中で
取りあつかうことを意味する」

積極的な目的として禅の倫理的目的は
”完全なる安心と恐怖のないこと”
を成就することである。
「禅は性格の問題であり、知性のそれではない。
ということは禅は生の第一原理としての意志から生ずることを意味する」

この禅の目的に関して述べられたものは
そのまま精神分析がなしとげたいと望んでいるところのものである。
すなわち自己自身の本性の洞察、自由、幸福並びに愛の獲得、エネルギーの解放
それによって人が狂人や不具者になることから救うこと等々。

精神病学は何故にある人々が狂気になるかということを問題とするが
本当の問題は何故に大ていの人々は狂気にならないかということである。

大ていの人々は人生の規範を無視したり
群集に追従したり、権力や名誉や金銭を追い求めたり
また(宗教的な儀礼で他人の人々の真似をして)偶像によりすがったり
自己犠牲によるマゾヒズム的な生活とか
自己愛的な自負とかに走ったりするような補償的な規制で
簡単にいえば不具者になることによって、この結果を避けているにすぎない。
これらの補償的規制もうまく行けば健康を保持することが出来る。
しかし真に潜在的な狂気を克服する唯一の根本的な解決策は
世界に対する充実した生産的な反応であり
その最高の形は悟りである。

精神分析も禅も共に本来倫理の体系ではない。
禅の目的は倫理的行為の目標を超越している。
そして精神分析も同様である。

両者の体系に共通するもう一つの要素は
いかなる権威にも依存しないことを主張する点である。
これはフロイトが宗教を批判するおもな理由である。
彼は宗教の本質が元来助けられたり罰せられたりした父親に頼る代わりに
神に頼ろうとする迷妄にあると見たのである。
フロイトによれば、人間は神を信ずることにおいて
彼の小児的な依存をつづけるものである。
”仏の名を誦えたときは口をすすげ”という一つの”宗教に対し
フロイトはなんといったであろうか。
神がなく、いかなる不合理な権威もない宗教
またそのおもな目的は、まさに人間をあらゆる依存から自由にし
彼を活動的にさせ、彼以外の何人も彼自身の運命の責任を
負う者がないことを示す宗教に対し、フロイトはなんと言ったであろうか。

禅の師匠は(精神分析家についても同じことがいえるが)より以上に知っている。
そのために彼の判断に確信をもつことができる。
だが、それは学生に彼の判断を押しつけるという意味では全然ない。
彼は学生を呼びもしないし、また学生の去り行くこともさまたげはしない。
もし学生が自分の意志でやって来て
彼の指導の下に悟りへのきびしい道を歩むことを欲するならば
師匠はよろこんで彼を指導する。しかしそれには一つの条件がある。
それに学生は次のことを了解すべきだということである。
すなわち師匠が彼を助けようと欲するだけ
それだけ弟子たる学生は自分自身のことをみなくてはならぬということである。
われわれはだれも他の人の魂を救うことはできない。
人はただおのれ自身を救いうるにすぎないのである。
師匠のなしうるすべては、いわば助産婦の役目であり、登山の案内者のそれである。
ある師匠がいったように
『私には何もお前のためにあたえるものがない。もし強いてそうすれば
お前は私を嘲笑の対象とするようになるであろう。
その上、私のお前に話すことができることは
どんなことでもわたし自身のものであり、お前のものではないのだ』

弟子に対するなんらの権力をも要求しない。
あるいは弟子が師匠にひきつづき依存することもしない。
それと反対に弟子が一度師匠にとなると、彼は自分独自の道を行き
師匠が時おり彼に期待するすべては
弟子が現在どうしているかを示すところの像である。
禅の師匠たちは真に弟子たちを愛しているといえよう。
彼の愛は現実主義的な熟成した愛である。

私自身この社会的フィルターから脱し得て
自分自身を宇宙的人間として経験し得るようになればなるだけ
すなわち抑圧が減少すればするだけ、自己自身の内面の最も深き根源
すなわち全人類にふれることになるのである。

子どもが鞠で遊ぶ時
子どもは真実に鞠が動いているのを見る。
子どもはまったくその体験の”中に”あるので
それなればこそやむことなきよろこびをもって
果てしなくくりかえすことができるのである。
おとなは同じく転げまわる鞠を見ていると信じている。
それはもちろん対象=鞠が対象=床の上を
転げているのを見ている限りにおいて事実である。
しかし彼はほんとうに転げているものを見ているのではない。
彼は床の上を転げている鞠を”考える”のである。

非抑圧状態は人間が再び直接的な歪曲されない実在を把握し
子どもの単純さと自発性とを獲得する一つの状態である。
しかし疎外、知性の発達の過程を通った後に
非抑圧はより高い段階における純真さへの復帰である。
この純真さへの復帰は人間が純真さを失った後においてのみ可能である。

世界の直接的な、全幅的な把握という目標は禅の目標である。

「実際にそれ(無意識)は反対にわれわれにとって最も身近なもので
またその身近さのために、ちょうど目がそれ自身をみることができないように
それを捉えることはむずかしい。それゆえに
無意識が意識的になることは意識の側に特別の特訓を必要とする」
by鈴木大拙

真の精神分析的洞察は突如として起こる。
それはなんら強要されることもなく、また前から計画されることもない。
それはわれわれの脳から発するのではなく
日本的なイメージを用いるとわれわれの肝からなのである。

「この”成熟した人間”がもし、”感情的汚染”や”知性作用”の干渉から
洗い清められたなら、もはやこのような恐怖や不安などの心を乱す感情が
彼を襲う余地のない自由な自発的な生活を実現することができる」
by鈴木大拙

禅の目的は悟りである。
すなわちなんらの感情的汚染も知性化もない
直接的な反省を加えない実在の把握であり
自分自身と宇宙との関係の自覚である。
この新しい体験は子どものもつ知性化以前の直接的な把握の繰り返しである。
しかも新しい段階においてすなわち人間の理性、客観性
および個性の全幅的発展においてである。
子どもの経験、すなわち直接的で一体の経験は
疎外および主観客観の分裂の経験以前のものであり
悟りの経験はその経験以後のものである。


禅は精神分析をどんなふうに利用するにしても
自分は西洋の精神分析家の立場から
この東洋の貴重なる”賜”に感謝の意を表し
また東洋の思想を西洋に翻訳する試みにおいて
その本質を少しも失うことなく
表現することに成功した人として
特に鈴木大拙博士に感謝の意を表したい。
博士はことに、西洋人が労をいとわないならば
その目標に到達する前に進み得る限りにおいて
禅の理解に到達することができるようにされた。
もしも、それが
仏性はわれわれすべてのうちにある
という事実
人間も存在もすべて宇宙的カテゴリーのもので
実在の直接的把握、覚醒、開悟は
宇宙的経験であるという事実なしには
このような理解が可能となるであろうか。





戻る
戻る




inserted by FC2 system