< 高村光太郎語録 U >



とにかく、その後彼(萩原守衛)は相変わらず中村屋とアトリエとで
日常生活を送り、中村屋の子供らを愛し、また愛され
いろいろの友達の世話をやき
生活の方は多分中村屋で三度の食事をとっていたのであろうし
彫刻費用の方は兄さんの本十氏が何とか工面のつくようにしてくれたと見え
モデル位は雇えたようだ。
むろん独身で、夜は畠の中の暗い一軒家のアトリエでねた。
彼は口腹の慾のために役されず、衣や住に無駄な金はつかわず
一切をあげて仕事のためにつくした。

私が子供の頃、弟子たちとの雑談の中で
父が「光りッ手、さびッ手」の言い伝えをはなしているのをきいて
弟子たちが気味悪そうに自分たちの手を見ていた事をおぼえている。
「光りッ手」というのはその人の持つ道具や刃物がいつのまにか
つやつやと光ってくるたちの手をさし
「さびッ手」というのはそれがいつのまにか
錆びて来るたちの手の事をさすのである。
「光りッ手」は上手の手
「さびッ手」は名人の手
という職人仲間の言い伝えだという事である。
手には何か未知の性質が匿されている。

いわゆる名人芸の話の中に出てくる三味線の名器とか
ヴァイオリンの何だとかいう類に似てくる。
ノミや砥石がどうであろうと彫刻の大道はそんなものに左右されない。
夢殿の救世観音は鳴滝の砥石なしで出来たろう。
ロダンがすばらしいタガネを持っていたとも聞かない。

能面は物まね演技の劇中人物を表現すべきものであるという条件が
その製作者をして勢い活世間の人間の面貎にまず注視を向けしめた。
しかも仏像の類と違って賢愚雅俗のあらゆる人面の芸術表現を余儀なくさせた。
これは人を救う仏ではなくて、仏に救われる煩悩の徒である。
これは尊崇措かざる聖者の肖像ではなくして
浮世になみいる妄執に満ちた憐憫すべき餓鬼の相貎である。
賢愚おしなべて哀れはかない運命の波に浮沈する盲亀の面貎である。
彼岸の仏菩薩でなくて、吾が隣人であり、また自己そのものである。
面打ちといわれる彫刻家の製作にあたっての生きいきした感慨は思いやられる。

こういう凡人の相貎を芸術化するという稀有な役割を持つ能面が
野卑な悪写実に走らずして、最も高雅な方向に向かったのは
一に当時の洗練された一般的美意識によると共に
能楽という演技そのものが、その発祥を格式を尚ぶ社寺のうちに持ち
謡曲のうしろには五山の碩学が厳として控えており
啓書記・兆殿司・斗南・鉄舟徳済というような禅門書画家の
輩出数うるに遑なきほどの社会的雰囲気の中に育ち
わけても天才世阿弥のような実技者のきびしい幽玄思想に導かれた事によるのである。

能面の美は演技上の必要から来たその表情の縹渺性に多く基いている。
喜怒哀楽をむき出しに表現せず、そのいずれでもなく、またそのいずれでもあるような
含みを深く湛えた美の性格を極限の境まで追求して得たこの深い含蓄性は
世界に類を見ない美の日本的源泉として
今日われわれの内にこんこんと湧いてやまない無限の力を与えてくれる。
「般若」のような激情の面でさえ
怒であると同時に、悲でもあり、のしかかる強さであると同時に
寂しい自卑自屈の弱さでもある。
こういう類の表現は単にそれを理解する事だけですら
恐らく今日の世界における美の感覚の程度では
及びがたいのではないかと考える。
われわれはかかる超高度美を感受し得る美的感覚を
今後あまねく世界の人々にすすめねばならぬ。
この源泉から得た力を更に時代と共に前進せしめねばならぬ。

奥深い含蓄性は元来東洋の持つ特性ではあるが
支那の持つこれと似たような性質とは根本から違っている。
例えば倪雲林の墨画が代表するような含蓄性
または幽玄性には
いつでも平かならざる抵抗性を内に蔵している。
われわれ民族のものはそういう曲折を内に持たない。
常に真正面から深く入り込んだ含蓄性、幽玄性なのである。
写真の「深井」は中年の女性の美とさびしさと
その人生的な味いとを魂もろとも遺憾なく表現している。
この写真を見ていると、いつしらず人間界の深い、遠いところに
明滅する美の発光体を心に感ずる。
「深井」に限らず、能面の美の牽引性はすべて造型と精神との一身同体から来ている。
美の日本的源泉としてのかかる含蓄性は
今後まるで違った芸術的表現の上にも大きな要素として生きるであろう。

この頃は書道がひどく流行して来て、世の中に悪筆が横行している。
なまじっか習った能筆風な無性格の書や、擬態の書や、逆にわざわざ稚拙をたくらんだ
ずるいとぼけた書などが随分目につく。

最も高雅なものから最も低俗なものがj生まれるのは
仏の側に生臭坊主がいるのと同じ通理だ。

徳川時代までの坊さんや儒者などには随分いい書を書く人がいたが
明治になってからはどうも少ない。
評判の人はいろいろいるが、真に感心出来るものは多くない。
坊さんの書がぐっとくだらなくなった。
むやみと書きちらしたらしい南天棒などというのがいるが、まったくの俗字だ。
学者にもいない。政治家にもいない。軍人にもいない。書家にもいない。
大体、明治という時代が、立身出世主義の俗物時代だったので
その臭みが誰のにもしみついている。

詩とは人が如何に生くるかの中心より迸る放射のみ。

ヴィタミンは抽出出来る。生命そのものは抽出出来ない。
生命はいつでも物質にインカルネイトする。
詩そのものの抽出もまた不可能である。
詩はいつでも素材にインカルネイトする。
真の詩人は、いかなる素材、いかなる思想をも懼れない。
詩が生命そのものの如き不可見でありまた偏在である事を知るからである。
第二流の筆技詩人のみ、詩のために素材を懼れ
詩に求むべきは詩の抽出なりと思惟する。
これ生命とヴィタミンとを倒錯する者に類する。

詩はもとより技術を要するが
小さな技巧よりも大きなまことが望ましい。
心の内側から真に出たものを処理する事が望ましい。
そうすれば必ず何処かに新鮮さが生ずる。
一切の問題はそれからの事である。
私は技巧と幼稚とを問わないが
そのいずれにも生きたもののある事を要求するのである。

詩はいかなる時にも純粋でなければならぬ。
濁りにも純不純があるのである。

精神の高さというものは、作の巧拙に関しない。
どんな幼いようなものにも
それがしんに自己の内奥から促されて書かれたものには
おのずから魂のひびきがきかれる。
詩がいつまでも幼稚であっていいというのではない。
成長すればするほど、複雑微妙になればなるほど
技術の高度化が加われば加わるほど
尚更思わくを絶した絶対感につきすすまねばならない。
それが詩のよろこびである。
有意識無意識をふたつながら超えたところに
詩の真の技術は行なわれる。

浅い愚痴や一旦の怒りは決して詩を成さない。

詩は無限なものだから何処からでも生れる。
花園の花からでも、造化屋の花からでも、瓢箪からでも、吐月峰からでも。
詩の言葉は原稿用紙の罫の間からも生れるだろう。
典謨訓誥からも生れるだろう。
街路に落ちている生きた言葉からは確かに生れる。
感ずる心がなければ言葉は符牒に過ぎない。
路傍の瓦礫の中から黄金をひろい出すというよりも
むしろ瓦礫そのものが黄金の仮装であった事を見破る者は詩人である。
また離ればなれになって活社会の生活のくまぐまに隠れている特殊語を呼び集め
引き合せ、仲良くさせ、一番確かな地盤の上に有機的に生活させ得る者は詩人である。
語格を自知する触覚を鍛えて
いたずら好きな自然の生み出す有り余る時代語に
百発百中の銛をうつ者は詩人である。
更にまた咄々と口を衝いて出る喧寒の凡語そのものに
創造のよろこびを知る者は詩人である。
なぜといえば、生きた言葉をつかむ悦びは
その事が既に創造の悦びに属し
生きた霊肉の同意語に外ならないからである。
人間のある所詩は常に澎湃する。

私はどうしても彫刻で何かを語らずにはおられなかったのである。
この愚劣な彫刻の病気に気づいた私は
その頃ついに短歌を書く事によって自分の彫刻を護ろうと思うに至った。

私の彫刻がほんとうに物になるのは六十歳を越えてからの事であう。
私の詩が安全弁的割から蝉脱して独立の生命を持つに至るかどうか
それは恐らくもっと後になってまなければ分らない事であろう。

現在の芸術中で一番近いものを探せば
恐らく音楽だろうと考えますが
不幸にして私は音楽の世界を寸毫も自分のものにしていないので
これはどうすることも出来ず
やむなく言葉による発散放出に一切をかけている次第です。



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