< 高村光太郎語録 T >



自分にとって何よりも確かなことは
私が内面から彫刻家的素質に貫かれているということである。
いわば世界を見る目が彫刻家的になってしまっているということである。

以前、人はよく私に向かって詩歌は私の余技かとたずねたものだが
私はこれを余技とはさらさら思わない。
同じ重量で私の中に生きている二つの機能であって
どちらも正面きっての仕事なのだ。

1914年に自費で「道程」を出したが、その後も詩作は発展していながら
自費出版の金もなし、出版者もなかったので、長い間第二詩集は出さなかった。

父(高村光雲)はよい職人の持っている潔癖性と
律儀さと、物堅さと、仕事への熱情とを持っていたが
また一方では職人にありがちな、太っ腹な親分肌もあり
多くの弟子に取りかこまれているのが好きであり
おだてに乗って無理をしたり、いわば派手で陽気で
その思考の深度は世間表面の皮膜より奥には届かなかった。
そして考えるというようなことが嫌いであった。
この世は人生であるよりも娑婆であった。
学問とか芸術とかいうものよりも
芸人の芸や役者の芸の方が身近だった。

製作態度が弛緩して、作品に俗気が多くなるに従って
世間からは大家に祭り上げられ、書画骨董商からはさかんに宣伝せられ
父も例の帝室技芸員従三位二等をやたらに書いた。

父が死ぬと、専ら父の作品でもうけていた道具屋の一軒は
程なく破産したときいている。
「おれにゃそう高くとる度胸がねえ」
と父は折にふれて私にいいきかせていた。

父は自分から好んで贅沢はしなかったが
母が身のまわりには気をつけていていつも堂々としていた。

父の期待や母の希望をまったく裏切り
文字通り不肖の子となった親不孝者が私である。

父は私の読書を嫌った。
職人に読み書きはいらねえとよくいった。
しかし美校の頃からそれを黙許するようになり
私の猛勉強に満足さえするようになった。
父は無学のため、学校などで随分恥をかいた様子で
これからの人間には学問がいると漸く思い出したのである。

父には宗教心がなかったともいえないが、母と同じように
それはただ民間信仰の気休め程度のもので
観音も拝み、稲荷も拝み、不動も拝み
ただ家内安全無事息災をいのるという次第で
伝承の迷信や禁忌などは一ぱい持っていた。
祖父などは天狗の存在を確信していて
私を小田原の道了権現につれていったりした。
私はさすがにそういう事からだんだん脱却し
それと同時に真実の宗教を求めて苦悶した。
一時は田中智学の法華経に熱中して本門寺の説教に通ったり
一時は禾山和尚の臨済禅に傾倒してからたち寺の提唱に耳を傾けたり
またキリスト教に心をひかれ植村正久の家を訪ねたりした。
しかしどうしても宗徒となることが出来ず
心を痛めながら青年の彷徨をひとりで重ねていた。

いろんな人が送りに来てくれたが
父の異母兄である中島巳之助という伯父さんからは
蚕の種紙を”たとう”にした針さしをもらい
平櫛田中氏からは小さな木版本の「無門関」をもらった。
両方ともその後非常に私の役に立った。
船の動き出した時甲板から海岸を見ると
一かたまりになっている見送人の中に父の姿が小さく見え
そのうしろに大きな富士山が雪をかぶって出ていた。

アルコホル類はボーグラム氏その他の人からいくらすすめられても飲めなかった。
学生時代からまるで飲まなかったのである。ただ餓鬼のように勉強した。

私の精神と肉体とは毎日必ず「生れて初めて」のことを経験し、吸収した。

アメリカで私の得たものは
結局日本的倫理観の解放ということであったろう。
祖父と父と母とに囲まれた旧江戸的倫理の延長の空気の中で育った私は
アメリカで毎日人間行動の基本的相違に驚かされた。
あのつつましい謙遜の徳とか
金銭に対する潔癖感とかいうものがまるで問題にならないほど
無視されている若々しい人間の気概にまず気づいた。

私は社会的に弱小な一ジャップとして
一方アメリカ人の、偽善とまで言えないだろうが
妙に宗教くさい、善意的強圧力に反撥を感じながら
一方アメリカ人のあけっ放しの人間性に魅惑された。

ニューヨークからロンドンに来てびっくりしたのは
白人の美しい女中が入口の階段などを洗っていることであった。
ニューヨークではそういうことはすべて黒人がしていたので
これでまず非常に由緒ある国に来たような気がした。
鍵が殆ど不用であり、人は信用を中心にして生活し
確実に考えて、ゆっくり行動し、他人を妨げず
また他人からも犯されず
社会通念としてのエチケットをおのずから身につけ
非常に古くさいようでいて、実は非常に進歩的であり
懐古をたのしみながら、全身の足をとめない。

ロンドンからパリへ来ると
西洋にはちがいないが、全く異質のものでない
自分に要素もいくらかはまじっているような西洋
つまりインターナショナル的西洋を感じて、ひどく心がくつろいだ。
魚が適温の海域に入ったような感じであった。
ニューヨークやロンドンでは自分が日本人であることを
いつでも自覚しないではいられないが
パリでは国籍をまったく忘れる時間が多かった。

そのうちパリにいることに疑問を持ちはじめた。
モデルの体を写生しながら、これは到底分らないと思うようになった。
虎を見ているような気がした。対象の内部がどうしてもつかめない。
これが日本人のモデルならもっとしん底から分るだろうと思い出した。

心の底から分る日本人を彫刻にしたかった。

四年前横浜を出る時アゼニンの甲板からあんなに大きく見えた富士山が
意外に小さいのは少し変だったが、美しいことはやっぱり美しかった。

数十人在京の父の弟子たちが集まって
上野公園見晴らしの梅川楼で私の歓迎会を催したが
その口々に私に要望するところのものは
実に世俗的な俗情ばかりで、結局二代目光雲になれとか
派閥的勢力拡大のために大いに尽くせとか
何だか仕事とはまるで関係ないことばかりを私におしつけた。

・・・あらゆる方面の旧体制に楯ついた。
自分ではこの世のうそっぱちを払いのけて
真実をひたすら求めていたつもりでいたのである。

結局父の脛を齧りながらあばれていたということになる。

世俗への反抗が根深い本質的のものであったことに
父は気がつかなかったように思える。

芸術そのものを馬鹿正直に考えている者はむしろ
下積みの者の中にたまにいるに過ぎないように見えた。

父の誇りとする位階勲等とか、世間的肩書きとか
門戸を張った生活とか、顔とか、ヒキとか
一切のそういうものを、塵か、あくたか、汚物のように感ぜずにはいられず
父の得意とするところをめちゃめちゃに踏みにじり
父の望むところを悉く逆に行くという羽目になった。

第一回の時の私の画を寺田寅彦が買ったが
他人に画を買われたのはそれが初めてであり
またその後そんなことはあまりなかった。

平塚雷鳥が「青鞜」をはじめて女性解放の運動を起した頃にあたり
その一員として、いわゆる新しい女の一人であり
でたらめな悪意に満ちた世評をさんざんに浴びていた一群の一人であった。
しかし私の会った本人(智恵子)は世評と逆に純心無垢な女性であった。
幾度か会っているうちにこの女性が私に熱愛を持つようになり
また私も、これまで会った多くの女性とまるで違う女性
永い間精神が捜し求めていた女性がこの女性だと思うようになり
ぱっと人生の窓がひらいた。私は急に変った。
今までのやけ酒や、遊びがまるで色あせてしまい
ただこの女性の清新な息吹に触れることだけが喜びとなった。
酒を飲むことはやめなかったが、飲むいわれがまるで違ってきた。
私の精神も肉体も洗われるように清められ
これまで気もつかなかった力が心の底から芽生えて来た。
この女性が私を信ずる力の強さで私ははじめて
自分で自分の本性を見ることが出来た。

それから駒込のアトリエにおける智恵子と二人の窮乏生活がはじまり
両親にも分らず、友人にも知られない貧との戦いを押し通して
ただめちゃくちゃに二人で勉強した。

どんなに平凡らしく見える人の首でも実に二つとないそれぞれの機構を持っている。
内心から閃いて来るものの見える時はその平凡が忽ち恐ろしい非凡の相を表す。
電車の中でも時々そういう事を見る。

女の人などは一生に二十日間位しかあるまいと思うような、特に美しい期間がある。
それをむざむざと過させてしまうのが惜しい。

あらゆる意味において、芸術家を唯一個の人間として考えたいのである。

人が「緑の太陽」を画いても僕はこれを非なりとは言わないつもりである。

賃銀のため過度に走った人力車夫が
目的地へ着いて客を下ろすと同時に心臓麻痺を起して倒れ
客は約束の賃銀を投じて冷然として去る。

「美の一片は美全体である」
(ロダン)

その表現の真実性において醜も美になるのです。

日本人には日本人固有の美があります。
美の有無の問題でなくて、その美を如何に作家が把握するかの問題です。
西洋の彫刻家にかなわないどころか
私は今に日本の彫刻は世の仰ぎ見るところとなると思っているのです。

その作品の背後に作家の高邁な精神力が潜んでいなければ
みんな無駄なものになってしまいます。
眼に見えるものきり感じられない作品は生きていません。
少なくとも浅くて軽い。
魂のない仏は仏ではないわけです。
元来、精神力の溢れが芸術となるのですから
その精神力の稀薄なものからは
どうしても栄養不良の芸術しか出て来ないのです。
そういう芸術は心を持ちません。人の心を高めません。
かえって人の心に媚び、人の心を低めます。
見る者におもねる芸術はおおよそ下等にきまっています。
かかる作品にあやされて喜んでいてはつまりません。

背後にあるもののなまなまと感じられる作品は貴い。
直接に作家の魂に触れる事の出来る作品は貴い。
かかる作品は憑かれたもののように不思議です。
幾千年の後になっても作家の心が生霊のように観る人を捉えます。
そういうのを指して不朽と作というのでしょう。
ただの巧拙の問題ではありません。
巧拙とは全く別個の事に属します。精神の仕事です。
この精神の仕事が優れた彫刻家表現と融合してはじめて立派な芸術となるのです。

「確にそこにある事の不思議な強さ」

しかし彫刻にはもっと肝腎な根本生命がある。詩の魂である。
詩の魂は翼を持つ。

詩を有たぬ彫刻は彫刻の甲斐がない。

立体感は”あらわれ”であり、詩魂は”いのち”である。

「如何なる時にも自然を観察せよ。自然に彫刻充満す」

触感はいちばん幼稚な感覚だと言われているが
そかもそれだからいちばん根源的なものであると言える。
彫刻はいちばん根源的な芸術である。

彫刻家はその附属品をみんな取ってしまった君自身だけを見たがるのである。
一人の碩学がある。その深博な学問はその人自身ではない。
その人自身の裸はもっと内奥の処にあたたかく生きている。
カントの哲学はカント自身ではない。

世上で人が人を見る時、多くの場合
その閲歴を、その勲章を、その業績を、その才能を
その思想を、その主張を、その道徳を、その気質を
またはその性格を見る。
彫刻家はそういうものを一先ず取り去る。
奪い得るものは最後のものまでも奪い取る。
そのあとに残るものをつかもうとする。
そこまで突きとめないうちは
君を君だと思わないのである。

人類はわずかに芸術によって不可能な生命創造への宿望を
満足させる事が出来たのである。

生命を持たないものは芸術でない。

いのちを内に持つものは悉く芸術である。

私は青年の頃
世上に真の芸術を僭称する擬体芸術のあまりののさばりに公憤を感じて
そういうものを撲殺しようとしてしきりに文章を書き
随分近所迷惑のことをしつづけてきたが
事態はいささかも善くならず、今日といえども更に変りはない。
しかし今日、私はこの擬体物を一掃しようなどとは考えなくなった。
むしろそういうものの多いのは
真のいのちある芸術の生れてくる可能性を強める
一種の肥料が増すことだと考えるようになった。
一見消極的になったように見えるが
その実、これは考え方が積極的になったのである。

「ダビデ」も「天上画」も「大壁画」も「ピエタ」も
「聖母」も「ブルータス」も「奴隷」も「モーゼ」もこの意味において雄弁である。
これこそ沈黙の雄弁といえる。
形象の世界では意味はどうにでもとれる。
その点を彼(ミケランジェロ)は巧みに利用して
敵の費用で敵をやっつけていたとも考えられる。
彼は現世に浮かれてただ美麗なもの
気まぐれなものを作っていた人間ではありえない。

ロダンはこの大きな自然をそのままに写し取った小宇宙だ。
普通にいう美醜の境を立ち越えている。
それだから
世間に普通ありふれた審美の尺度しか持たない人たちの目には
ロダンの芸術は美しくない。きたないものを沢山包んでいる。
不完全なものを到る処に持っている。
しかし、その点が取りも直さず、ロダンの大きなわけだ。
そうして
この宇宙の万象の微妙に美しいように、彼の芸術が微妙に美しいわけだ。

「自然」に帰依する熱情。これが凡ての根本だが
しかしこれは芸術家という名に値する芸術家たる以上
当然の事であって、特にここに教えるまでもない事である。

ロダンは自分の優越を語るのが馬鹿々々しいほど
同時代者に対する自分の優越を感じていたと思う。
ロダンの頭にはこれが優越として感じないで、真実として感じていたようである。
他の作家は間違っている、自分は間違っていない
という事の方が強かったようである。
そして真実感が優越感よりも深くて強いのは勿論の事だ。
この真実感を確かめた因をロダンは皆古大家に得た。
そして古大家の前には実にへり下った。
ロダン自身で苦しんでやっと得たものを古大家は
幾世紀の昔に既に得ていると感じたのである。
ロダンが古大家に得たのはその道についてである。
あとは、実に自由奔放を極めた。




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