< 創造的進化 V >
(ベルクソン)


本能の符号(言語)は固着した符号であり
知性の符号は動く符号である。

実証科学の見地からいうと
有機体の組織を細胞に分解した日
人は比類のない進歩をとげたのであった。
ついでこんどはその細胞の研究から
これがまたひとつの有機体であり
掘り下げるにつれて複雑さを増すらしいことが明らかにされた。
科学の進歩にともない
たがいに外にならびあってひとつの生物を作っている異質的な要素が
ますます多数あらわれる。
こうして科学はいよいよ生命のまじかに迫るのであろうか。
むしろその反対で
生物の生命に固有なものはその並びあった部分を
細かに追及してゆくにつれてだんだんと
後退してみえるのではなかろうか。
すでに科学者たちのあいだに、有機体の実質を連続と考え
そして細胞は人が作りあげたものとみる傾向がはっきりあらわれている。

知性は生命にたいする本能的な無理解を特徴とする。

それとは反対に生命の形式そのものにあわせて型どられているのが
本能である。
知性は一切を機械的にあつかい
本能はそういってよいなら有機的に手をすすめる。
もし本能の中にまどろんでいる意識が目ざめるなら
本能が外に出て行動になるかわりに内にこもって認識になるなら
私たちが本能に問うすべを知りかれも答えることができるなら
本能は生命の奥ぞこの秘密を私たちに打ち明けてくれるにちがいない。
けだし本能は生命が物質を有機化する仕事を引きついでいるにすぎない。

意識がもっともひろびろと花をひらきついでに
自分を完全に掘り下げることができさえすれば
それは生命の創生力に合致することになろう。
人もみるように
生物の身体では幾千もの細胞が共通目的にむかって一緒にはたらき
つとめを分かちあい自分のために生きながら他のためにも生き
それぞれに自分を保持し養い再生し
危険におびやかされると適切な防衛作用で反応する。
これらは本能がそれだけあるのだと考えずにいられようか。
それにもかかわらず
それらは細胞の自然な機能でありその生活力の構成要素なのである。

生命は古えの哲人の表現をかりれば
自己自身と共感するひとつの全体なのである。

一方には新ダーウィン説の原理にしたがって
本能を淘汰により保存された偶然変差の総和とみるひとびとがいる。
有効なあの仕草この仕草を
個体があらかじめ胚についた偶然な傾向から自然にはたすと
その仕草が胚から胚へとつながりながら
そこにまた偶然がおとずれて前と同じ手続きで
新たな仕上げを加えてくれるのを待つのだ、という。
他方には本能を退化した知性とみるひとびとがいる。
ある行動が種または種のある成員により有効と判定されると
それが習慣を生じ
その習慣が遺伝によりつたわって本能になったのだという。
ふたつの体系のうち
前者は本能の起こりを偶然な変様におき
これは個体が獲得したのではなく胚についたものだとするのであるから
重大な異議をまねかずに遺伝的な送達を語りうるという長所をもつ。
そのかわり、これではほとんどの昆虫にあるあの怜悧な本能はまったく説明できない。

蔓草がいかにも自信をもって的確にその巻髭を活用するさまや
蘭がいかにも巧みに所作を組合わせながら昆虫を介して受精をおこなうさまをみると
それぞれが本能であることを考えずにはいられない。

主題は根源のところでは疑いもなく
”考えられる”よりはむしろ”感じられる”ものなのであった。

アナバチが自分の餌食を動けなくするにはどこどこを刺したらよいか
また餌食を死にいたらせずに麻痺させるには
その脳髄にどんな特殊な術をほどこせばよいかを
時間をかけてひとつひとつ手探りで学びとったと想定しよう。
いったい、あれほどの的確な認識のあれほどの特殊な諸要素が
遺伝によってひとつひとつ規則ただしく伝えられたなどということまで
想定できるであろうか。

本能は知性の領域に入らぬからといって
精神の域外にあるわけではない。

本能は共感である。

芸術家は一種の共感によって対象の内部に自分をもどし
自分と対象とのあいだに空間がつくった障壁を
直感のはたらきで崩して低めながら目的をはたす。

知性がなかったら直感はいつまでも本能の形でいて
自分と実際的に利害のある特殊な事物に釘付けされ
その事物によって外面化されたまま場所運動をつづけるであろう。

「人間のばあいになると精神の身体にたいする太古以来の奴隷が
廃棄でもされたように見うけられ
身体の構造はその本質的な点は同一なままなのに
知的な部分は異常な速さで発達してゆく」

ところで物体の引力のことだけをいっても
その働きは太陽におよび
惑星におよび、おそらく全宇宙にもおよぶ。

意識がいよいよ知性化するにつれて物質はますます空間化する。

哲学はどうみても全体のなかにあらためて溶けこもうとする努力にほかならぬ。
知性は自分の原理へ没入しながら自分の発生を逆むきに生きなおすことであろう。
しかしその企てはもはや一挙にはなしとげられないであろう。
それはどうしても共同による漸進的なものとなろう。
そこではさまざまな印象の交換が主な仕事になるであろう。
印象はたがいに訂正しあい重なりあいさえしながら
いつかは私たちのなかに人間性を拡大し
その結果は人間性が人間性を超えるにいたるであろう。

実際理屈は私を固い土の上にいつまでも釘づけにする。
しかしごく素直に恐がらないで水に飛び込むならば
沈むまいとばたばたしながらどうにかまず水上に身をささえ
そうして徐々にこの新しい環境になれて泳ぎを覚えることであろう。

物理や化学は生の物質に打ちこむであろうし
生物や心理の科学は生命のさまざまな発現を研究することであろう。
すると哲学者の仕事はきちんと限られていることになる。
哲学者は科学者の手から事実と法則をうけとる。
そして事実や法則をこえてその奥の原因に達しようとつとめるばあいもあり
それよりさきへは出られないと信じて科学認識の分析そのものによって
出られないことを証明するばあいもあろう。
いずれにせよ哲学者は事実や関係を科学から手わたされるままに尊重して
判定ずみのものにたいしてはそうするのが当然だとみる。
哲学者はそうした科学認識の上に認識能力の批判をかさねて置くし
いよいよとなったら形而上学のようなものまでもかさねて置くであろう。
認識そのものについては
それの素材面は科学のあつかうことで哲学にかかわりはないとする。

哲学は科学の後を追って
科学的真理のうえにそれとは別種の
形而上学的ともよぶことのできる認識をかさねて置くべきなのであろう。

自分のいちばん深みにおりて
こここそは自分に固有な生命の最奥所だなと感じられる地点をさがそう。
すると私たちはもとの純粋持続に
過去が絶対にあたらしい現在によってたえず肥りながらひたすら
前進してつくる持続にもぐりこむ。
けれどもそれと同時に
私たちは意志のバネがぎりぎりのところまで緊張することも感じる。
自分の人格をはげしく自己収縮させることによって
私たちはすり抜ける過去をとりあつめ
これを緊密不可分なままにつきすすめて
やがて現在を創造させながら現在のなかにはいりこませなければならない。

実際未開人は文明人より距離を見つもり
方向をさだめるわざにたけているし
通ってきた道のしばしば混みいった略図を記憶で辿りなおすことや
したがって出発点に直線コースでもどることもうまい。

物理法則のとる数学形式には人工めいたところがあり
したがって私たちの科学の事物認識にもそのようなところがある。
私たちの測定単位は約束ごとであり
そういってよいなら自然のいだく意図とは縁がない。

自然は測らないし、もともと数えもしない。

自然の底には数学的法則のこれときまった体系などはなく
一般に数学は物質の落ちてもどる方向をもっぱら表象するだけなのである。

画家のひく独創的な線はそのまますでに運動の固定であり
いわば凝固でもあるのではないか。

私たちは生物としては自分の住む惑星とそれを養う太陽とに依存していて
ほかには何ものにも依存しない。

宇宙はなったのもではなく
不断になりつつあるものなのである。
それは疑いもなく新しい世界をつけ加えながらはてしなく成長している。

実際、およそいままでの分析が示したように
生命には物質のくだる坂をさかのぼろうとする努力がある。
分析はそうした努力をたよりに
物質性とは逆の過程が自分を中断するだけで
物質を創造するものとしてありうること
なければならぬことを垣間みさせてくれる。
もっともこの地球上で進化する生命は物質に結びついている。
かりに生命が純粋意識か、あるいはもっと正しくいって超意識であったなら
それは純粋な創造活動になったであろう。

生命は落下する錘を持ち上げる努力のようなものである。

「生命はほかにはあれほど多くの点であれほど巧みに努力しているのに
個体の生存をどこまでも延ばす努力はけっしてしなかった」

養分には動物の肉もなりうるが
その動物はほかの動物を食べたはずであり、以下同様であろう。
しかしとどのつまりは植物にゆきつく。
植物だけが太陽エネルギを真の意味で受けとめる。

細胞があってそれが連合して個体をつくったのではないことはきわめて確からしい。
むしろ個体が分裂してそれらの細胞をつくったのである。

一切の経過からいって
人間といおうか超人といおうかとにかくそうしたある不定なもやもやした存在が
自己実現につとめながらあたかも自分の一部をみちみち捨てることによってしか
そこに到達できなかったかのようにみえる。

事実は
私どもを成員とする人類では
直感はほぼ完全に知性の犠牲になっている。

いったいひとは無について語るさい何を考えているか。
無を思いうかべるとは無を想像(イメージ)することか
あるいはその概念をもつことである。
そうしたイメージあるいは観念はどんなものでありうるか。
それを検討するために、まずイメージからはじめよう。
私はいま眼をとじ耳をふさぎ
外界からくる感覚をひとつひとつ消そうとしている。
それがうまく出来たとする。
私の知覚はことごとく消え去り
物的宇宙は私にたいし沈黙と夜の淵にしずむ。
そのあいだにも私は存続し、存続しないわけにはゆかぬ。
この私のりっぱに存在して
身体の周辺部や内部からくる有機感覚を
過去の知覚が私にのこした記憶をもち
いま自分のまわりに作りだした空虚についての
明らかに積極的な充実した印象までももっている。
それらのものをどうしたらことごとく排除しうるか。
どうやってこの自分を消去するか。
厳密にいって私は記憶をさえぎることはできるし
自分の直前の過去までは忘れることもできる。
だがすくなくとも自分の現在についての
それも極度の貧しさまでおちこんだ現在
すなわち身体の現状についての意識はとどめている。
しかしさらにその意識とも私はいま絶縁しようとこころみる。
私は身体から送りこまれるさまざまな感覚をだんだんと弱めてゆく。
このとおり感覚はいままさに消えかかる。
ついに消えて、さきに一切の没していった夜のなかへ姿をけしてほしい。
だがそうはゆかない。
意識の消えるその瞬間にべつの意識が点る。

空虚の表象はきまって充実した表象である。
それは分析してゆくと積極的なふたつの要素に
すなわち判明なあるいは雑然とした置換の観念と
欲求あるいは後悔の体験されまたは想像された感情とに分解する。

対象を「存在せぬ」と解したさいの観念はおなじ対象を「存在する」と
解したさいの観念にくらべて少ないどころかかえって多くのものを内包する。
けだし「存在せぬ」対象の観念はかならず「存在する」対象の観念であるうえに
そこにさらにその対象が現実的事象を一括したもので排除されるという
表象がおまけにつくのである。

してみれば否定が本来の意味の肯定とことなるのは
それが第二次的な肯定たるところにある。
肯定が対象についてなにかを肯定し
その肯定について否定はなにかを肯定する。

私たちの行動は「無」から「あるもの」へと進むのであり
「無」のカンヴァスに「あるもの」を刺繍することは実に行動の本質をなしている。
もっとも、いま問題の無とはものの欠在よりはむしろ有用性の欠在のことである。

「絶対」は心理的な本質のもので
数学あるいは論理上の本質ではない。
それは私たちとともに生きる。

私たちは「子供が大人になる」とはいわないで
「子供から大人への生成がある」というにちがいない。

古代科学は対象の取っておきの瞬間瞬間を書きとめたときはじめて
それを申し分なく認識したと信ずるのに
近代科学は無差別にあらゆる瞬間にわたって対象を考察する。

古代人の科学は静的である。

芸術家の仕事の持続は仕事に不可欠な構成部分をなしている。
その持続を収縮あるいは膨張させるなら
持続をみたす心的発展とこれにけりをつけた
発明とが同時に変様されることになるであろう。
発明の時間はここでは発明そのものとひとつでしかない。
それは思考が身体化するにつれて変化してゆくときの進展である。
要するにそれは生きた過程であり
なにか想念の成熟のようなものなのである。

哲学者は科学者よりもさきへ進まなければならぬ。





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