< 橘 曙 覧 語 録 >



たのしみは 草のいほりの 筵敷き ひとりこころを 静めをる時

たのしみは すびつのもとに うち倒れ ゆすり起すも 知らで寝し時

たのしみは 珍しき書 人にかり 始め一ひら ひろげたる時

たのしみは 紙をひろげて とる筆の 思ひの外に 能くかけし時

たのしみは 百日ひねれど 成らぬ歌の ふとおもしろく 出できぬる時

たのしみは 妻子むつまじく うちつどい 頭ならべて 物を食ふ時

たのしみは 物をかかせて 善き値 惜みげもなく 人のくれし時

たのしみは 空暖かに うち晴れし 春秋の日に 出であるく時

たのしみは 朝おきいでて 昨日まで 無りし花の 咲ける見る時

たのしみは 心にうかぶ はかなごと 思ひつづけて 煙草すふ時

たのしみは 心にかなふ 山水の あたりしづかに 見てあるく時

たのしみは 尋常ならぬ 書に絵に うちひろげつつ 見てもゆく時

たのしみは 常に見なれぬ 鳥の来て 軒遠からぬ 樹に鳴きし時

たのしみは あき米櫃に 米いでき 今一月は よしといふ時

たのしみは 物識人に 稀にあひて 古しへ今を 語りあふ時

たのしみは 門売りあるく 魚買いて 煮る鍋の香を 鼻に嗅ぐ時

たのしみは まれに魚煮て 児等皆が うましうましと いひて食ふ時

たのしみは そぞろ読みゆく 書の中に 我とひとしき 人をみし時

たのしみは 雪ふるよさり 酒の糟 あぶりて食ひて 火にあたる時

たのしみは 書よみ倦める をりしもあれ 声知る人の 門たたく時

たのしみは 世に解きがたく する書の 心をひとり さとり得し時

たのしみは 銭なくなりて わびをるに 人の来たりて 銭くれし時

たのしみは 炭さしすてて おきし火の 紅くなりきて 湯の煮ゆる時

たのしみは 心をおかぬ 友だちと 笑ひかたりて 腹をよる時

たのしみは 昼寝せしまに 庭ぬらし ふりたる雨を さめてしる時

たのしみは 昼寝目ざむる 枕べに ことことと湯の 煮えてある時

たのしみは 湯わかしわかし 埋火を 中にさし置きて 人とかたる時

たのしみは とぼしきままに 人集め 酒飲め物を 食へといふ時

たのしみは 客人えたる 折しもあれ 瓢に酒の ありあへる時

たのしみは 家内五人 五たりが 風だにひかで ありあへる時

たのしみは 機おりたてて 新しき ころもを縫ひて 妻が着する時

たのしみは 三人の児ども すくすくと 大きくなれる 姿みる時

たのしみは 人も訪ひこず 事もなく 心をいれて 書を見る時

たのしみは 明日物くると いふ占を 咲くともし火の 花にみる時

たのしみは たのむをよびて 門あけて 物もて来つる 使ひえし時

たのしみは 木芽煮やして 大きなる 饅頭を一つ ほほばりし時

たのしみは つねに好める 焼豆腐 うまく煮立てて 食はせける時

たのしみは 小豆の飯の 冷えたるを 茶漬てふ物に なして食ふ時

たのしみは いやなる人の 来たりしが 長くもをらで かへりける時

たのしみは 田づらに行きし わらは等が 鋤鍬とりて 帰りくる時

たのしみは 衾かづきて 物がたり いひをるうちに 寝入たる時

たのしみは わらは墨する かたはらに 筆の運びを 思ひをる時

たのしみは 好き筆をえて 先ず水に ひたしねぶりて 試みる時

たのしみは 庭にうえたる 春秋の 花のさかりに あへる時々

たのしみは ほしかりし物 銭ぶくろ うちかたぶけて かひえたる時

たのしみは 神の御国の 民として 神のおしへを ふかくおもふ時

たのしみは 戎夷よろこぶ 世の中に みくに忘れぬ 人を見る時

たのしみは 鈴屋大人の 後に生まれ その御諭を うくる思ふ時

たのしみは 敷ある書を 辛くして うつしをえつつ とぢて見る時

たのしみは 野寺山里 日をくらし やどれといはれ やどりける時

たのしみは 野山のさとに 人遇ひて 我を見しりて あるじする時

たのしみは ふと見てほしく おもふ物 辛くはかりて 手にいれし時

(「独楽吟」より)




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