< 慧 能 語 録 >



君たちは、悟りの智慧を、誰でもちゃんと持っている。
心を見失うから自分で悟ることができぬのだ。


素直な心が真理の場所である、素直な心が浄土である。


禅と智慧の関係を何かに譬えるなら
ちょうど灯火とその光明のようなものだ。
灯火があれば光明があり、灯火がなければ光明はない。
灯火は光明の主体であり、光明は灯火の作用である。
名称は二つあるが、主体は二つあるわけではない。


自分の本心を見分けることが
本性に目覚めることにほかならない。
目覚めてみると、はじめから差別はないのだが
目覚めぬうちは、永遠に生死をくりかえして果てがない。


無相とは、相の中にいて相を出るのであり
無念とは、念の中にいて念じないのであり
無住とは、人間の本性のことである。


外に対して如何なる固有の形も脱け出ることさえできれば
われわれの本性は本質的に清浄(しょうじょう)である。


自分を見失ったものが、環境に対して固定観念をおこし
その固定観念が誤った分別を生み出すから
あらゆる煩悩と妄念が、そこへ現れ出るのだ。


とは、相対的な立場や、さまざまの煩悩を出ることであり
とは、ありのままの本性を念ずることである。
ありのままなるものが念の主体であり
念はありのままなるものの作用である。


外にあらゆるものの形を区別しつつ、内には絶対空の立場を動かぬ。


われわれの本性ははじめから清浄である。
妄念によって真なるものが隠されているだけである。
妄念とは無関係に、本性は清浄である。
本性がはじめから清浄であることを知らないで
心を起して清浄なものを見守ると、今度は清浄という妄念を生み出す。
妄念には根底がないのだから、見守ることの方が妄念であるとわかる。
清浄には形がないのに、かえって清浄という形をおしたて、手がらであると考える。
こんな考えをする奴は、自分の本性をさまたげて
自分の方から清浄に縛られているのである。


自分を見失ったものは、自から身体こそ動かさないけれども
口を開けばすぐに他人のよしあしを問うて、道に背を向ける。


とは、外にあらゆる存在に対して心の起こらぬこと
とは、本性に目覚めて乱れぬこと。


すぐにカラリと本来の心にたちもどる。


もともと本性清浄でなくてなならぬ。


君たち、本性それ自から清浄であることに目覚めよ。
自から修め自から完成するのが、本性の法身であり
自から行ずるのが、仏行であり
自から成り、自から完うするのが、仏道である。


人々の本性は清浄で、あたかも青い空のようである。


あらゆる存在がちゃんと本性のうちにあるのを、清浄法身仏とよぶ。
一瞬の善なる心が智慧を生むとき、これを本性の千百億化身仏と名づける。
いつも今の念が善であるのを、円満報身仏とよぶ。
この三身に目覚めてはじめて、仏法の究極目標の何であるかがわかる。


「衆生は無辺なり、誓って度せんとねがう」とは
私が君たちを度するのではない。
君たちの心中の衆生が、各自に、自分に対して本性が自から度するのだ。
本性が自から度するとは何であるか。
自分の身体のうちで、誤った考えや迷い、愚痴、妄念などが
はじめからちゃんと本質的な自覚の力をもっていて
正しい考えによって自分を度するのである。
正しい考えという本来の智慧に目覚めて
愚痴や妄念を払いのけてしまった以上
衆生は各自に自から度する。
誤りは正で度し、無自覚は自覚で度し、愚かさは智慧で度し
悪は善で度し、迷いは悟りで度する。
このように度するのを真実の度と名づける。

「煩悩は無辺なり、誓って断ぜんとねがう」とは
自分の心が虚偽を払いのけることである。

「法門は無辺なり、誓って学せんとねがう」とは
このうえもない正法を学ぶことである。

「無上なる仏道を、誓って成ぜんとねがう」とは
いつも心を謙虚に保って、すべてを敬うことである。


迷いを払いのけると、本来に目覚めて智慧を生み
妄念を払いのけると、たちまち悟って仏道が完成し
誓願の力が働くのである。


過去の心、将来の心、および現在の心は
一瞬一瞬に愚かな気まぐれに汚されることなく
これまでの悪行の根は一度に完全に断ちきられている。
自己の本性がそれらを払いのけていること
これが懺悔にほかならぬ。

過去の心、将来の心、および現在の心は
一瞬一瞬に愚痴に汚されることなく
これまでの自己偽瞞を払いのけている。
これを自己本性の懺悔とよぶ。

過去の心、将来の心、および現在の心は
一瞬一瞬にそねみ心に汚されることなく
これまでのそねみ心を完全に払いのけている。
自己の本性はそれらを払いのけている。
これが懺悔である。
とは、死ぬまで犯さぬこと
とは、これまでの過ちを知ることだ。


とは、各自に心が目覚めること
とは、各自の心が正しさをとりもどすこと
とは、各自の心が清浄に立ちかえること
という意味である。


自己の本性がとりもどされねば、よりどころはないのである。


摩訶とは、大ということだ。
心の働きは広大で、天空のようなものだ。
天空は、日月星辰・大地山河・草木・悪人・善人・天国・地獄のすべてを包んで
みな天空に中におくことができる。
われわれの本性という天空も、やはり同じことである。
自己の本性があらゆる存在を包含しているところが大ということであり
あらゆる存在はそのまま自己の本性にほかならぬ。
見失った人は、口にとなえるだけであり
智慧ある人は、心に実践する。
心の働きは広大であり、実践しなければ狭小である。

般若とは、智慧のことである。
どんな時にも一瞬一瞬の心をくもらせないで
いつも智慧を働かすのを般若の実践とよぶ。

波羅蜜とは、彼岸が達したという意味である。


わが法門は、八万四千の智慧を思いのままに働かす。
なぜなら、われわれに八万四千の汚れがあるからである。
もし汚れさえしなければ
般若はつねに自己本性にうちにあって離れぬ。
この道理に目覚めたものは、無念であり、無憶であり、無執着である。
虚偽をやらかしさえせねば、そのまま真実の自己そのものである。


自分を見失ったものも、気付いて心が開けたときは
大智慧ある人と変りはしない。
気付かぬときは、仏もそのまま迷いの人間であり
一瞬に気付けば、迷いの人間がそのまま仏であるとわかる。
あらゆる教えも、すべて自分の心次第であるとわかる。
どうして自分の心のままに、一挙に真実の本性を現わしださないのか。


自分の心を見とどけて見性し、自から仏の道を完成し
たちまちにしてカラリと本心にかえることができるのである。


自心の内なる友人におめにかかってこそ、自己解放できるのだ。


『 愚者は福を修めて道を修めぬ。
福を修めてそれが道だと考えている。
ものを施し、食を奉仕して、福は限りないけれど
心のうちには三業が残っている。
もし福を修めることで罪を消そうとするなら
後の世で福を把むと、罪も一緒にやって来る。
心の中で罪の条件をとり払うことができてはじめて
自性はすっかり懺悔したといえる。
大きい乗りものに目覚めることが真の懺悔である。
不正を捨て正道を進んで、罪のないところに達する。
修行者が自から観察できるなら、すでに目覚めた人と同列である。
先師は、わたしにこうした根本の教えをお授けくだされた。
わしはこれを君たち修行者と一つにしたい。
今後、本来の身を探そうとおもうものは
三毒の悪条件をみずから洗いだすことだ。
力を奮って道を修めよ、のんびりしてはいかん。
油断して無駄に過せば、一生おしまいだ。
君たちは大乗という根本の教えに出会ったのだ
謹んで手を合せて、純なる心で求めよ 』


心が浄められると、その国も清浄となる。


三毒の心が払いのけられるとき、地獄は一挙に姿を消し
内も外も透きとおって、極楽にいるのと変らぬ。
こういう経験をしないでおいて、どうして彼方に到達できようか。


君たち、修行しようとおもうなら、在家でよろしい、寺にいることと関係はない。
寺にいて修行しなければ、西のくにの人が心の悪い人であるのと同じだ。
在家で修行すれば東のくにの人が善行をつむようなものだ。
ひたすら自分に清浄の行をつみなさい、それが西のくににほかならぬ。


『 経文で知り、心で知って、あたかも太陽が中天に登ったようだ。
根元の教えだけを広めて、世の中で邪教をくだく。
教えに根元と末端の差はないが
見失うゆえに、遅い早いの別があるのだ。
根元の教えとなると、愚者は究めることができぬ。
説明はさまざまだが、さいごは、つくかそるかの一つだけだ。
迷えば暗い部屋の中だが、そこにつねに智慧の日がさしこんでいる。
よこしまゆえに迷うのである、正常なれば、迷いは消える。
正常もよこしまも、およそとりあわず、さっぱりと何も残さぬ悟りに達せよ。
悟りははじめからさっぱりしたものだ、心を起すから妄念となる。
清浄な本性は妄念の中にある、正常であれば、三つの障碍はない。
俗世にいて修行するのに、およそ何の差しつかえもない。
たえず自分の過失に目をそそげば、ぴたりと道に契うものだ。
生命あるものに、ちゃんと道がある、道のほかに道を探して何としよう。
道を探すものには道が見えぬ、最後は自から苦しむだけのことだ。
本当の道を見たければ、正常でいることこそ道である。
自分に正常な心がなければ、ヤミクモに進んでも道は見えぬ。
本当の修行者というものには、他人の過失など目に入らぬ。
他人のあやまちを目に入れると、自分のあやまちの方が危ない。
他人のあやまちは、自分に咎がないが
自分のあやまちは、自分に咎がある。
自分にあやまった心を払えば、迷いをとことん打ちくだくにひとしい。
愚者を教えるには、どうしても方便が必要だ。
彼らの疑いを打ちくだかせて、はじめて悟らせるではないぞ。
真理ははじめから世俗にある、世俗にあって世俗を出るのだ。
ゆめゆめ世俗のところを離れて、さらに世俗を出ようとしてはならぬ。
人はまちがって世俗を出ようとし、正常に世俗を出ようとするが
正常もまちがいも共に打ち捨てることだ
さとりそのものは少しも変らぬ。
これを伝えるのは、根元の教えだけであり
大いなる乗りものともよばれる。
見失うと無限の時間をかさねるが、それに目覚めるのは一瞬のことだ 』


自己の本性にはあやまちがない、乱れもなければ愚かさもない。
一瞬一瞬に般若の智慧がものを映しだして
いつでも、ものの形にとらわれない。
そこに、何をもちだすというのだ。
自己の本性は根底より治まっていて、段階的に悟ることはない。
だからもちださぬ。


法の方は完全に君のところにとどいているのに
君の心がとどいていない。
経文に不審はないのに
君の心が自分で不審がっているのだ。
君の心があやまって、正法を探しているのだ。


『 およそ真なるものはない、真によって真は見えない。
もし真なるものが見えるというなら
真でないものを見ているにすぎない。
もし自分に真があるなら、仮を脱けた心が真である。
自分の心が仮を脱けなければ、真を否定して何処が真だというのか。
心があるから動けるのであり、心のないものは全く動かぬ。
動かぬことを実践するだけなら
心のないものが動かぬのと同じことである。
もし真が動かぬことが見えると、動くところに動かぬものがある。
動かぬものはそれだけのことだ。
心のないものに仏性はない。
差別の相をよくあらわしつつ、根本真理は動かない。
こうした見方に気付くなら、それが真なるものの働きだ。
修行者たちに申しあげる、つとめてよくよく注意せよ。
大きい乗りものの中にいながら、生死の智慧にとらわれてはいかん。
目の前でぴたりといける者ならば、共に仏陀の真理を語るに足る。
たとえぴたりといかなくても、手を合せて感激を分かとう。
この教えはもともと対立がない、対立がないところこそ道のポイントだ。
見失って法門を争うのは、自分の心が生死におちているのだ 』


心の土地が心の種を包んで
教えの雨が降って、はじめて花は咲く。
花の心と種にめざめて、悟りの実は自然に結ぶ。


『 心が見失われると、仏も衆生である。
目覚めてみると、衆生も仏である。
心が愚かなときは、仏も衆生である。
智慧が働くときは、衆生も仏である。
心が傾くときは、仏も衆生である。
平らかなときは、衆生も仏である。
生涯、心が傾きを生ずると、仏は衆生の中に隠れる。
一瞬も、心が平らかであれば、衆生がそのまま仏である。
自分の心にちゃんと仏がいらっしゃる
自分という仏こそ真である。
自分に仏心がなければ、どこに仏を探すのか 』


『 ありのままの、清浄な心の本性が真仏で
まちがった分別の三つの毒(貪・怒・痴)は悪魔である。
まちがった考えをもてば、魔がその家に宿り
正しい考えをもてば、仏がやって来る。
自分の中で、まちがった考えが三つの毒を生むと
魔王はその家に宿りにくる。
正しい考えが起こると、たちまちにして心の三つの毒は払いのけられて
魔は仏に変って、真であって仮ではない。
化身の報身の法身という、仏に三身はもともと一体である。
わが身の中に自分で見つけだせば
すぐに仏の悟りを完成する力となる。
もともと化身の方から清浄な本性を生みだすのであり
清浄な本性はいつも化身の中に隠れている。
本性が化身に正しい道を行かせるとき
将来に完成されて真実は無限である。
色欲をもつ肉身こそ清浄の根本だ
色欲のほかに清浄な身体はない。
本性が五欲をとり払うとき、見性の一瞬、そのまま真実だ。
この世で根元の教えに目覚めるなら
覚めると同時に眼前に世尊を拝むのである。
もし修行して仏を探しにゆくなら
いったいどこに真を探そうとするのか。
自分に真を求めないで外に仏を探すのは
探せば探すほど大馬鹿ものだ。
根元の教えを、わたしは今すでに残した。
人々を救おうと思うなら、自から修行しなくてはならぬ。
今、世の学道者に申しあげる
この通りやらぬのは、あまりのんびりすぎである 』






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