< 臨 済 語 録 >



病気はすべて自から信じないことから来る。
君たちは、自から信ずることができないと
たちまちせかせか、あらゆる対象に引きずられ
さまざまの環境にかきまわされて思うにまかせぬ。
君たちが、そんな絶えまのない欲求の心を停止できるなら
祖師や仏とすこしも違いはせぬ。

毎日のさまざまの働きに、いったい何が足りないか。
眼と耳と鼻と口と身と心という六すじの不思議な輝きは
一度だって止まったことはない。
もしこう考えることができるなら
君たちはもう死ぬまで何も欠けていない男である。

君たちの心の一瞬の清浄な輝きこそ、君たちの内なる法身仏であり
君たちの心の一瞬の無分別の輝きこそ、君たちの内なる報身仏であり
君たちの心の一瞬の無差別の輝きこそ、君たちの内なる化身仏である。

いったい何を探すのだ。
君たちは、自分で自分を映し返してみるがよい。

まあ、あたりまえであってくれ。

真理とは、心の真理である。
心の真理は、決まった姿がなくて
十方世界をつきぬけ、眼の前にあらわれている。
誰も信じきれないで、やたらに名目をめあてにし
文書のうちで仏法を見込もうとする。
天と地ほども遠くへだたっている。

君たちは、まあどこででも自主性を貫けば
足の踏むところすべて真実だ。

眼のあいた道の仲間なら、魔も仏もどちらもやっつける。
君たちが聖者を慕って凡人を嫌うなら
生死の海に浮き沈みするほかない。

どこもみな清浄であるのが仏である。

仏は何のよりどころもないところから生れたのである。
何のよりどころもないことを悟るなら、仏もまた把えようはない。
こうわかるなら、これが正直な考えである。

君たちの一瞬の疑いが、土という要素に自分を固まらせるのであり
君たちの一瞬の渇愛の心が、水という要素に自分を溺れさせるのであり
君たちの一瞬の怒りの心が、火という要素に自分を焼かせるのであり
君たちの一瞬の歓びの心が、風という要素に自分を舞い上がらせるのである。

君たちがもし聖を好んで凡を嫌うなら
聖と凡という環境にしばられるほかない。

ほかでもない君たちという、目の前に働いて
いつも変らず、どこにもとまどわぬのが、これが生きた文殊さまだ。
君たちの差別のない一瞬の心の輝きこそ
どこでもみな本物の普賢さんである。
君たちの一瞬の心が、自分で繋縛をときほぐし
どこでも解放できるのが、それが観音三昧のおしえである。
互いに主となりワキ役となって
すがたをあらわすときはいつも同時にすがたをあらわして
一人がそのまま三人であり、三人がそのまま一人である。
こう理解できてはじめて、お経を読むにふさわしい。

いまごろ仏道を学ぶものは、まあ自から信ずることが必要だ。

君たちは道理に契ってありたいと思うのなら
どこまでも一人前の男でなくてはならぬ。
ふにゃふにゃでは駄目だ。

大物の男なら、けっして世間のごまかしに引かれてはならぬ。
どこまでも自由性を貫くことだ、足のふむところ、すべてが真実である。
何がやってきても、引かれてはならぬ。

君たちが現在作用しているものを信ずるだけのことだ。
他に何事もありはしない。

わしは君たちと一緒に奥ゆかしい国に行くと
清らかな装いで法身の仏を説得し
さらにものの差別のない国に行くと
差別のない装いで報身の仏を説得し
さらに解放の国に行くと
光明の装いで化身の仏を説得する。

心のほかに真理はない、心のうちも把えられない。
いったい、なにを見つけるというのだ。

仏や祖師は、何事もない男のことである。

どこに行っても人がみな受け入れるようでは
およそ何の役に立つものか。
『ライオンが一声うなると、狐どもは卒倒する』

『あたりまえの心が道である』

君たちの心が一瞬一瞬に変らぬのを、生きた祖師とよぶ。
もし君たちの心が変るとき、本体と現象は二つになる。
心は変らないから、本体と現象が分れぬ。

『如来の全身の特徴は、世人の気持ちにあわせたものだ。
人々に虚無の偏見を起さぬために
とにかく調子のよいことをいい立てるだけだ。
三十二というのもかりそめなら、八十というのも空しい言葉だ。
幻の身はさとりの体でない。
固有のすがたのないところが真実の身である』

真の仏は姿がなく、真の存在は特徴をもたない。
君たちは、幻想のまわりに恰好をつけてばかりいるが
たとえ何かを把えても、すべて老狐の精にすぎぬ。
断じて真の仏ではない。

『君たちがもし聖を好み凡を嫌うなら、生き死にの海に浮き沈みする外ない。
煩悩は心が生み出すものだ、心がなければどうして煩悩に拘束されよう。
心にかけて道だときめるまでもなく、はじめから道の中にあって時間はいらぬ』

ほかならぬ君たちという、わしの目の前の働きは
祖師や仏と何も違っていないのに
ぜんぜん信じないで、さらに外を探している。

すでに起こった心を追っかけてはいかん
まだ起こってない奴を、起させる必要はない。

大げさなことは何もない。
どこまでもあたりまえで、衣をきて飯をくって
事もなしに時をおくるだけである。

君たちの一瞬のむさぼりの心が欲界であり
君たちの一瞬のいかりの心が色界であり
君たちの一瞬の心の愚かさが無色界である。

君たちが心の迷いを停止できるなら
すでに君たちは浄らかな感触の領域にいる。

『心は、さまざまの環境を追って動いてゆく
動いていくままが、まことに奥ゆかしい。
流れに沿って、本性を知ることができるなら
よろこびもなければ、悲しみもない』

『外で形のある仏を探すのは、君に似つかぬ。
君の本心を見つけたいなら
あらためて一つになることも別れることもない』
真実の仏は身体をもたず
真実の道は実体をもたず
真実の法は特徴をもたない。
三つは、互いにとけあって一つにむすびついている。

仏とは、われわれの心が浄らかなことであり
法とは、われわれの心の輝きであり
道とは、どこもさえぎらないで、浄らかに光ることだ。

君たちがどこでもここでも物を探しまわる心を切り捨てられぬからだ。
それで祖師はいわれる
『愚かなことよ、一人前の男が、自分で自分の顔を探している』と。
君たちが、この一声で光をはねかえして逆に相手を照らして
すこしも外に探さないで
わが身が祖師や仏とちがっていないことに気付いて
そのまま何事もなしにいるとき、はじめて真理を把んだといえる。

およそくどくどしい問題などありはせん。
やろうと思えばすぐにやる、やらねばそれまでのことだ。

”大通”とは、自分のことだ。
どこででも、さまざまの存在に実体がなく
特徴もないということに通達するところを、大通とよぶ。
”知勝”とは、どこにも疑わしいものがなく
一つの存在すら把えられぬのを、知勝とよぶ。
”仏”とは、心が清浄なことである。
光が世界のすみずみまで透りぬけるのを、仏とよぶことができる。

『仏はいつも世の中におられて、しかも世間の存在に汚れない』

『心が起きると、もろもろの存在はすがたをあらわす
心が消えると、もろもろの存在もすがたを消す』

『心さえ起きなければ、もろもろの存在に罪はない』

何をうろたえて、みごとなライオンの皮をかぶっていながら
野狐の鳴き声を出すのか。
一人前の男が一人前の息もできず、自分の内にあるものを信じようともせず
外を探しまわるばかりで、古人のつまらぬ名目にのせられて
陰陽をうかがいばかりで、独り立ちすることができぬ。
何か見つけてはよりかかり、物に出会ってはとりつく。
どちら向いても混乱するばかりで、自分にきまりというものがない。

誰かが仏を探すなら、その男は仏を逃している
誰かが道を探すなら、その男は道を逃している
誰かが祖師を探すなら、その男は祖師を逃している。

要求するのは、君たちの正直な考えだけである。
よしんば百冊の経論が読めても
何事もないただの坊主には勝てぬ。

着るもの食べるものに気をとられてはならぬことだ。
知ってのごとく、世の中は変りやすい。
すぐれた友人は、めったに会えぬ。

仏や祖師たちの伝統に、けっして特別の意図はない。

君たちは、道理にかなってあろうと思うなら
けっして疑いを起さぬことだ。
のべひろげると、真理はあまねく存在の世界にゆきわたるが
しまいこむと、髪の毛ひとすじも残さぬ。
はっきりとしてそれ自からあきらかで、今まで何の不足もなかった。
眼に見ることがなく、耳に聞くことのないそのものを
いったい何と名づけるのか。
古人はいっている
『何かを説きだせばもうすかたんだ』と。
君たちは、とことん自分で看るのだ。
そのほかにいったい何があろう。
話しても、きりはない。
めいめいに努力なされよ。
大儀でござった。





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