<忘れられた日本人語録>
(宮本常一)


「遊びに来ないかね」と馬上の一人がいうと「盆にはナ」と答えた。
旧盆なのだからもう十日もさきのはずだ。
「今年はあんまり来んな」「そうだな、五月にいったきり・・・」
若者は腰を伸ばしてわれわれを見た。
丸顔のあかるいがっしりした青年であった。
中山から佐護谷へは二里近いが、とにかく隣部落である。
それを正月以来いままで五月に一度佐護へいったきりだという。
ラジオも新聞もなく土曜も日曜もない
芝居も映画も見ることのない生活がここにはまだあるのだ。
「働くだけだろうか」「そうでもないな。みんなで重箱つくって
中山(海岸部落)へ磯物をとりにいったり、魚をとりにいったり
やっぱりたのしみはあるもんだね」と老人がいった。
「ああ、このじいさんなんざァ声がよいのでずいぶんよいたのしみをしたもんだ」
と馬上の一人がいった。

宿で夕飯をすまして待っていると、おそくなってよびに来てくれた。
酒の一升瓶をさげていって見ると
六十過ぎのおばァさんが四人ほどあつまっており、他に若いものもいた。
ばァさんたちに「あんたが口切りにまずうたわにゃァ」と言われるものだから
私は私の郷里の盆踊りの口説の一節をうたうと
「よう似ている」とばァさんたちは喜んでうたいはじめた。
「のどをしめして・・・」といって酒を湯のみにつぐと
遠慮もしないで飲んで、それからうたい出した。いい声である。
ノートを出しては気分がこわれるからと思って、ただきくだけにしたのだが
一人がうたって息がきれかかると次の人がうたう。
歌舞伎芝居関係のものが多いのだが、必ず手ぶりがともなう。
腰をうかし、膝で立って上半身だけの所作が見ていてもシンから美しい。
これがただの農家のばァさんとはどうしても思えない。
座にいる若い男たちはばァさんたちにぼろくそにやっつけられる。

「人間一人一人をとって見れば、正しい事ばかりはしておらん。
人間三代の間には必ずわるい事をしているものです。
お互いゆずりあうところがなくてはいけぬ」
と話してくれた。
それには訳のあることであった。
その村では六十歳になると、年より仲間にはいる。
年より仲間は時々あつまり、その席で
村の中にあるいろいろのかくされている問題が話し合われる。
かくされている問題によいものはない。
それぞれの家の恥になるようなことばかりである。
そういうことのみが話される。
しかしそれは年より仲間以外にはしゃべらない。
年よりがそういう話をしあっていることさえ誰も知らぬ。
知人も四十歳をすぎるまで年より仲間にそうした話しあいのあることを知らなかった。
老人からの話の内容については一言も聞かされなかったが
解放に行きなやんでいるとき
「正しいことは勇気をもってやりなさい」といわれて、なるほどと思った。
そこで今度は農地解放の話し合いの席で
みんなが勝手に自己主張をしているとき
「皆さん、とにかく誰もいないところで
たった一人暗夜に胸に手をおいて、私は少しも悪いことはしておらん。
私の親も正しかった。
私の家の土地はすこしの不平もなしに手にいれたものだ
とはっきりいいきれる人がありましたら申し出て下さい」
といった。
するといままで強く自己主張をしていた人がみんな口をつぐんでしまった。

年とった物わかりのいい女の考え方や見方が
若い女たちの生きる指標になり支えになった。

生活の救いともなるのが
人々の集まりによって人間のエネルギーを爆発させることであり
今一つは私生活の中で何とか自分の願望を果たそうとする
世界を見つけることであった。
前者は祭りとか家々の招宴の折に爆発して前後を忘れた馬鹿さわぎになり
後者は狭い村の中でなお人に見られぬ個人の行為となって来る。
とくに後者の場合は姑と嫁の関係のようなものの外に
物ぬすみとなったり男女関係となってあらわれる。

「あんたらまだ嫁をもらうてはおらんわね。ええお嫁もらいなさいよ。
嫁のわるいのは一生の不作じゃ」

とにかく年寄りの隠居制度のはっきりしている所では
年寄りの役割もまたはっきりしていた。

「菜飯をあまりたべなくなったのは明治三十年ごろからだと思います。
わたしの家はとくべつに貧乏だったので、食いものごしらえには苦労した。
わたしは六つのときに子守にいって九つまで子守をした。
今の子供で六つといえばネンネだが、わたしら六つで子供の一人前にされました。
十歳になると草刈にやられるようになりました。
そうして十六の歳にはもう嫁にいった。
十六といえば今は中学生であります。
亭主はその時二十三でありました。
わたしはそういうことで小学校というものへ一日もいった事がない。
亭主は松沢の養子で、岡崎の近くの者で、亭主のおふくろが早く後家になり
子供もたくさんいて、育てかねて、この村まで来て松沢でもらってもろた。
それで松沢の子として大きうなりました。
松沢で家をたててもろうて、分家することになって、わたしは嫁にもらわれた。
家やしきだけで、何一つ財産もない
それでもしゅうとめも小じうとめも居らんから気らくだろうと親も人も言うので
わたしもその気になったが、それから六十年一緒におりました。
無口で、一日中ろくにものも言わずに暮らしました。
ただ人の二倍も仕事をするのがとりえで・・・」

「昔はまァ、うまくないものを食うて、よう働きました。
私の亭主は朝おきてから夜ねるまで草鞋をぬいだ事がなかった。
昼寝をするにも草鞋をはいていた。
六十年一緒に暮らしても、ろくに笑うたのを見たことがなかった」

「口ではよく姑の嫁いじめと言いますが
さてとなってさがしてみると案外ないもんですのう。
それより嫁の姑いじめの方が多いのではないかな。」

「吉川弥衛門は女房と一緒にあるいておりまして
それこそ仲むつまじい夫婦でありました。
よほどえらい女でありました。
何でも旅先で、笠をわすれたことがあって
弥衛門は
「もう二里も来たのだから、もういいではないか
またどこかで新しく買えばよい」
というのを女房はきかずに二里もひきかえして
笠を持ってきたそうであります。
「おまえはなぜそれほどその笠に執着をもつのだ」
ときくと。
笠のぬい目をといて、中から十円札を出して見せて
「もしもの時にこの金があると役にたつから」
と言ったそうでありますが、そういう心がけのよい人でありました。
仲むつまじくしておりましたが子もなく、この土地で二人とも死に
私の家で葬式も出しました。
死にましても大阪の知らせる家もなく、そのまま終わりました。
昔はそういう人がちょいちょいありました。
前歴を人に語ることのできぬようなこともあったのでありましょう。
しかしまた、村の者もそういう事をきこうとしなかったものであります」

「昔は貧乏人の子はみんな子守り奉公したもんじゃ。
それが頭に鉢巻をして子供をおうてお宮の森や村はずれの川原へ群れになって
出てままごとをしたり、けんかをしたり、歌をうとうたりして遊うでいた。
わしら子守りのない男の子は、そういう仲間へ何となくはいって遊うだもんじゃ。
親はなくとも子は育つちうが、ほんにそうじゃな」

「はァ、おもしろいこともかなしいこともえっとありましたわい。
しかし能も何もない人間じゃけに、おもしろいということも漁のおもしろみぐらいのもの
かなしみというても、家内に不幸があったとき位で
まァ、ばァさんと五十年も一緒にくらせたのは、何よりのしあわせでごいした。
だいぶはなしましたのう。一ぷくしましょうかい」

「私がまだ五、六歳ごろのことであったと思う。
山奥の田のほとりの小さい井戸に亀の子が一ぴきいた。
私は山へいく度にのぞきこんでこの亀を見るのがたのしみだった。
ところが、こんなにせまいとことにいつまでもとじこめられているのはかわいそうだと
思って祖父にいって井戸からあげてもらい、縄にくくって家へもってかえる事にした。
家で飼うつもりであった。
喜びいさんで一人でかえりかけたが、歩いているうちにだんだん亀が気の毒になった。
見知らぬところへつれていったらどんなにさびしいだろうと思ったのである。
そして亀をさげたまま大声で泣き出した。
通りあわせた女にきかれても
”亀がかわいそうだ”
とだけしかいえなかった。
そしてまた山の田の方へ泣いて歩いていった。
女の人がついて来てくれた。
田のほとりまで来ると祖父はいたわって亀をまたもとの井戸にかえしてくれた。
「亀には亀の世間があるのだから、やっぱりここにおくのがよかろう」
といったのをいまでもおぼえている。
この亀は私が小学校を出るころまで井戸の中にいた。
そしてかなりの大きさになった。
ある日となりの田の年寄りが
「亀も大きくなったで、この中では世間がせまかろう」
といって井戸から出してすぐそばの谷川へいれた。
それからのち私が三十をすぎるころまで
夕方山道をもどって来るとこの亀が道をのそのそとあるいているのを
見かけることがあったが、祖父はまた山道でこの亀を見かけると
その事を必ずはなしてくれたものである。
こういう人たちは一般の動物にも人間と同じような気持ちで向かい合っており
その気持ちがまたわれわれにも伝えられてきたのである」

「どこにおっても、何をしておっても、自分が悪いことをしておらねば
みんなたすけてくれるもんじゃ。
日ぐれに一人で山道をもどって来ると
たいてい山の神さまがまもってついて来てくれるものじゃ。
ホイッホイッというような声をたててな」
小さい時から聞かされた祖父のこの言葉はそのまま信じられて
その後どんな夜更けの山道を歩いても苦にはならなかったのである。

春から夏へかけてのころ、溝の穴からカニがよく出て来た。
ヨモギの葉をもんで、それを糸でくくって
穴の口へつりさげて動かすとカニが出て来てはさみではさむ。
それをうまく吊りあげる。
子供にとってはたのしいあそびの一つであった。
つることには賛成だったが
「カニをいじめるなよ。夜耳をはさみに来るぞ」
とよくいった。
そのカニのはさみをもぎとると
「ハサミはカニの手じゃけえ、手がないと物がくえん、ハサミはもぐなよ」
といましめたものである。
「カニとあそんだら、またもとへもどしてやれよ
あそんでくれんようになるけえのう」
ともいってくれた。
そうしてカニを私たちの友だちとしてあつかうようにしつけた。

姑は「私一代は家のつとめを十分つとめますけえ
どうぞ嫁の代にはなまけてもゆるしてやってつかされ」
と先祖へことあるごとにゆるしを請うておくものだと
年とった女たちからよくきかされた。

さて祖父が死ぬると、古い親戚は
「じいさんの死んだことだし、親戚つきあいはやめにしよう」
と何軒かの家からいって来た。
それでそういう家はまったく他人になっていったのである。
親戚は家についたものではあるが
同時にその家の主人、主婦についたもの
とくに老人の意志によることが多い。
親戚づきあいは普通従兄弟位までの間でおこなわれるが
義理がたくすれば再従兄弟までがその範囲になる。
それも、相手の家との話し合いによってきまる。
現在私の家でも母は正月のあいさつ、盆の先祖礼にあるいている。
しかし妻はほとんどあるいていない。
このようにして世代ごとに家の行事もあらたまっていくようである。

それからの祖父はよく村の中ほどにある地蔵様の前で拝んでいた。
何を祈るかと人に聞かれると
「わしもばいさァのようにポックリと死にたいで
それを願うちょるのじゃ」
といっていた。

石槌山は天狗の巣で、その天狗が時々山をわたりあるく事があった。
風もないのに木々の梢が大風の吹いているようにざわめくのである。
また夜半に山がさけるような大きな音がしたり
木のたおれたりすることがあった。
これを天狗の倒し木と言った。
さて夜が明けて見ると何のこともないのである。

字を知らぬ人間はだまされやすかった。人のいうことは皆信じられた。
平生ウソをつく者なら「あれはウソツキだ」
と信用しなくてもすむが
そのほかのことはウソでも本当と信じなければ生きて行けなかったものである。
これはウソで、これは本当だというような見分けのつくものではなかった。

「左近さん、世の中には困ったり苦しんだりしている人が仰山いる。
それがわしらの言う一言二言で、救われるもんや
世の中にはまた人にうちあけられん苦労を背負うてなはる人が仰山いる。
ま、そういう人に親切にしてあげる人がどこぞにいなきゃァ世の中はすくわれしません。
わしら表へたって働こうとは思わんが、かげでそういう人をたすけてあげんならん」

「易というものはそれが他人のためによかれあしかれ暮らしをたてていくための
指針になるものでなければならぬ。
気休めだけではいけない。
それには易者が金持ちになるようでは私心があって本物ではない。
易者は貧乏だが食うに困らぬというのが本物だと大川翁はおしえたという。
「やっと世間のことがわかるようになったときには、もう七十になっていましてな。
わしも一生何をしたことやらわかりません」

明治から大正、昭和の前半にいたる間、どの村にも世間師が少なからずいた。
それが、村をあたらしくしていくためのささやかな方向づけをしたことは見逃せない。
いずれも自ら進んでそういう役を買って出る。
政府や学校が指導したものではなかった。

文字を知らない人たちの伝承は
多くの場合耳から聞いたことをそのまま覚え、これを伝承しようとした。
よほどの作為のない限り、内容を変更しようとする意志はすくなく
かりにそういうもののある人は伝承者にはならなかったものである。
つまり伝承者として適しなかったから
人もそれをきいて信じまた伝えようとする意志はとぼしかった。
その話している事が真実であっても古くから伝えられていることと
その人の話が大きくくいちがっているときには
村人はそれを信じようとしなかったものである。
そして信じられるもののみが伝承せられていく。

文字に縁のうすい人たちは
自分を守り、自分のしなければならない事は誠実にはたし
また隣人を愛し、どこかに底抜けの明るいところを持っており
また共通して時間の観念に乏しかった。
とにかく話しをしても、一緒に何かをしていても区切のつくという事が少なかった。
「今何時だ」
などと聞くことは絶対になかった。
女の方から「飯だ」
といえば
「そうか」といって食い
日が暮れれば「暗うなった」という程度である。
ただ朝だけは滅法に早い。
ところが文字を知っている者はよく時計を見る。
「今何時か」と聞く。
昼になれば台所へも声をかけて見る。
すでに二十四時間を意識し、それにのって生活をし
どこかに時間にしばられた生活がはじまっている。

文字を持つ事によって
光栄ある村たらしめるために父祖から伝えられ
また自分たちの体験を通して得た知識の外に
文字を通して、自分たちの外側にある世界を理解し
それをできるだけ素直な形で村の中へうけ入れようとする
あたらしいタイプの伝承者が誕生していった。
が、明治二十年前に生れた人々には
まだ古い伝承に新しい解釈を加えようとする意欲はそれほどつよくはなく
伝承は伝承、実践は実践と区別されるものがあった。
それが明治二十年以後に生れた人々になると
古い伝承に自分の解釈が加わって来はじめる。
そして現実に考えて不合理だと思われるものの否定がおこって来る。

「古い農民生活は古い時代にあっては、それが一番合理的であり
その時にはそのように生きる以外に方法がなかったのである。
それだけにその生き方を丹念に見ていくことは大切であるが
時代が新しくなれば新しい生き方にきりかえてもいかねばならぬ。
しかしそれは十分計画もたて試してみねばならぬ。
それは村の中の目のさめた者の任務である。
自分の家はそういう目の見える家の一つであった。
よくわからぬが、もともと加賀白山の山伏であったらしい」

民俗学をやっている人は多くの場合
みな人がよくて気がおけぬし、功名心にかられる人がない。
その上、村のどういう話をしても、それをさげすむ者もいなければ
また誇大にいいふらそうとする者もない。

東北の一隅にいても一隅にいるという気がしない。
自分のいるところが中心なのだという気がする。
「この学問は私のようなものを勇気づけますなァ
自分らの生活を卑下しなくてもいいことを教えてくれるのですから・・・」

そこにある生活に一つ一つは西洋からきた学問や思想に影響をうけず
また武家的な儒教道徳のにおいのすくない
さらにそれ以前の考え方によってたてられもののようであった。

一つの習俗が
その伝承者の資格によっていろいろにかわっていくことは多い。

民間の口頭伝承は文書資料とちがって
自分たちの生活に必要のなくなったものはぐんぐんわすれ去られていく。

信仰のもっとも盛んなときではなく多くは衰退期であって
かなりこわれていてこのままでは忘れられてしまうから書きとめておこうという
場合が多い。
過去において文字はそうした場合に役立つものであった。
高木さんはそういう意味で、古い伝承者たちの伝承を
現代へつなぐための重要な役割をはたしてきた一人であるが
ご自身また完全な民間伝承者であった。

村の中にあって村人の指標となるタイプに二つのものがある。
その一つは村の豪家や役付の家の者が村の実権をにぎっている場合である。
今一つは一般農民の中にあって、その思想や生活の方向づけをしている人である。
高木さんは後者のタイプに人である。
肩書きはどうでもよい人で、百姓であることを何よりのほこりにしていたが
戦争末期に周囲から無理にすすめられて、草野村助役になった。

『開国百年記念文化所業会』が『明治文化史』を編纂したことがあった。
われわれもその「生活編」というのを引きうけて書いたことがある。
そこでは古くからの日本人の日常生活に外国文化がどのような衝撃をあたえ
われわれはそれにどのように対応していったかをみることに重点をおいて
全国の仲間の方々に質問状を出した。

民間のすぐれた伝承者が文字をもってくると
こうして単なる古いことを伝承して、これを後世に伝えようとするだけでなく
自分たちの生活をよりよくしようとする努力が
人一倍つよくなるのが共通した現象であり
その中には農民としての素朴なエネルギッシュな明るさが生きている。
そうしてこういう人たちを中軸にして戦争以前の村は前進していったのである。



”私は長い間歩きつづけてきた。
そして多くの人にあい、多くのものを見てきた。
その長い道程の中で考えつづけた一つは
いったい進歩というのは何であろうか。
発展とは何であろうかということであった。
すべてが進歩しているのであろうか。
進歩に対する迷信が
退歩しつつあるものをも進歩と誤解し
時にはそれが人間だけではなく、生きとし生けるものを
絶滅にさえ向かわしつつあるのではないかと思うのである。
進歩のかげに退歩しつつあるものを見定めてこそ
われわれに課されたる
もっとも重要な課題ではないかと思う”

(宮本常一)




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