< 金 剛 語 録 >


須菩提は世尊に申し上げた。
「世尊よ、良家の男子にせよ、女子にせよ、すでに菩薩の道に入った者は
どのように実践し、どのように生活し、どのように心を保つべきでしょうか」

世尊は次のように話された。
「すでに菩薩の道に入った者は、次のように心がけねばならない。
すなわち、『生けるものの世界において、およそ衆生という名のもとに
包摂される生きとし生けるものは、何ものにもせよ
彼らをすべて、わたくしは、完全な涅槃の世界に引き入れねばならない。
しかし、そのように、たとえ無数の衆生を涅槃に導いたとしても
実はいかなる衆生も涅槃に入ったのではない』と。
それはなぜかというと
もし菩薩に”衆生”という観念があるなら
彼は”菩薩”とよばれることがありえないからである。
それはまたなぜか。
もし菩薩に”わたくし”という観念が生じるなら
あるいは衆生という観念、命あるものという観念
個我という観念が生じるなら
彼は菩薩とよばれることがありえないからである」

さらにまた、菩薩は事物に執着しながら布施をすべきではない。
何かに執着しながら布施をすべきではない。
つまり、色形に執着しながら布施をしてはならないし
音声や香りや味や触れられるものや
心の対象に執着して布施をすべきではない。
というのは
偉大な菩薩は、相の観念にさえもとらわれないで
布施をしなければならないからである。
それはなぜか。
菩薩が執着することなく布施を行なうならば、その功徳の集積した量は
容易にはかりえないものとなるからである。
おまえはどう思うか。
東のほうにある虚空の量は、容易にはかれうるであろうか」

須菩提がお答えした。
「いいえ、世尊よ、そんなことはできません」

世尊が言われた。
「菩薩が執着することなく布施を行なうならば
その功徳の集積した量は、容易にはかられうるものではない。
このように、すでに菩薩の道に入った者は
相の観念にさえもとらわれないで、布施をしなければならないのである」

世尊が言われた。
「如来はおよそ特相(偉大な人としての身体的な特相)がそなわるという
そのかぎりにおいて、それは虚偽なのである。
特相はそなわらないという、そのかぎりにおいては、虚偽ではない。
したがって、如来は『特相の無特相』という観念から見られねばならない」

「偉大な菩薩たちには、”わたくし”とい観念が起こらないし
衆生という観念も、命あるものという観念も
個我という観念も起こらないからである。
また、彼ら偉大な菩薩たちには、”もの”という観念も生じないし
また、”ものでない”という観念も生じない。
さらにまた、彼らには観念であるとか観念でないとかということも生じない。
それはなぜか。
もし、彼ら偉大な菩薩たちに、”もの”という観念が生じるなら
彼らには、かの”わたくし”への執着が起こるであろう。
衆生への執着、命あるものへの執着、個我への執着が起こるであろう。
もし、”ものでない”という観念が生じるなら
また彼らには、かの”わたくし”への執着が起こるであろう。
衆生への執着、命あるものへの執着、個我への執着も起こるであろう。
それはなぜかといえば
偉大な菩薩は、法にも執着してもいけないし
法でないものに執着してもいけないからである。
したがって、如来は、この点を考慮することによって
次の言葉が説かれたのである。
『教法が、筏にたとえられることを知る者は
法さえも捨て去らねばならない。
まして、法でないものは、なおのことである』と。

「ところで、どう思うか。
如来が、このうえなく正しい悟りであるとして悟ったような法が
何かあるのであろうか。
如来が教え示したような法が、何かあるのであろうか」

須菩薩は次のように世尊に申し上げた。
「如来が、このうえなく正しい悟りであるとして悟られたような法は、何もありません。
如来が教え示されたようないかなる法もありません。
なぜかといいますと
如来によって悟られたとか、教え示されとかいう法は
とらえられないもの、表現すべきでないものだからです。
それは、法でもなく、法でないのでもありません。
なんとなれば、聖者たちというものは
つくりつくられたものでないことによって
特徴づけられているからです」

世尊が語られた。
「良家の男子にせよ、女子にせよ
この三千大千世界を七種の宝で満たして
正しい悟りを得た尊敬すべきもろもろの如来に布施するとしよう。
ところで、他方、この法門の中の、たとえ四句からなる詩一つだけでも
自ら学んで身につけ、他の人々にもくわしく示し、説明するとしよう。
両者のうちで後者こそが、そのことによって
より大きな功徳の集積
はかりしれない無数の功徳の集積を生み出すことになろう。
それはなぜか。
正しい悟りを得た尊敬すべきもろもろの如来の無上の正しい悟りは
実はこの教えから生じるからである。
この教えから、諸仏世尊が生れるからである。
それはまたなぜか。
仏陀の教法、仏陀の教法というが
それは、実に仏陀の教法ではない、と如来は説くからである。
だから、仏陀の教法とよばれる」

世尊が仰せられた。
「もしもある菩薩が『自分は仏陀の国土の光輝を完成しよう』と言うならば
彼は虚偽を語る者である。
なぜかというと
国土の光輝、国土の光輝というのは
それは光輝ではないのだと、如来は説かれるからである。
だから、国土の光輝というのである。
それゆえ、偉大な菩薩は
<執着のない心を生じるべきである>
すなわち、何かに執着した心を生じるべきではない。
色形に執着した心を生じるべきでない。
声、香り、味、触れられるもの
心の対象などに執着した心を生じるべきではない。」

「この法門の名は『智慧の完成』である。
そのように、これを受持するがよい。
それはなぜか。
如来によって説かれた『智慧の完成』は
すなわち完成ではないと、如来は説かれるからである。
だから、『智慧の完成』と言われる」

須菩提は次のように世尊に申し上げた。
「世尊よ、この経典が説かれるのを聞いて
それが、真実であるという考えを生じる菩薩は
最高の驚異をそなえた者となるでありましょう。
なぜかといいますと
世尊よ、その真実であるという観念は
すなわち真実の観念ではないからです。
だから、真実の観念である、真実の観念である
と如来は説かれるのである」

世尊は仰せられた。
「この経典が説かれるとき
それを聞いて動揺せず、恐れず、恐怖に陥らないような人々は
最高の驚異をそなえた者と言うべきであろう。
なぜかというと
如来によって説かれた、この最高の完成は、すなわち完成ではないからである。
しかも、如来が説く最高の完成というものを、無数の諸仏、諸菩薩もまた説く。
それゆえに、最高の完成と称されるのである」

「およそ執着したということは、すなわち執着しなかったことだからである。
それゆえ、如来は説かれた。
『菩薩は、執着することなく布施をしなければならない。
色形、声、香り、味、触れられるもの
心の対象に執着することなく、布施をしなければならない』と。

「たとえば暗闇の中にはいった人には何も見えないであろう。
それと同じく、ものにとらわれて布施をする菩薩は
ものにとらわれて何も見えないものとみなされなければならない。
たとえば、健全な目をもっている人ならば
夜が明けて太陽が昇った時に、いろいろな形のものを見るであろう。
それと同じく、ものにとらわれずに布施をする菩薩は
ものにとらわれない者あらゆる真実を見うるものと考えられなければならない。

「この法門は思議することのできないもの、比較を絶したものである。
また、この法門は、最高の道に入って人々のために
至高の道に入って人々のために、如来によって説かれたものである。
およそこの法門を身につけ
受持し、読誦し、理解し、さらに他の人々に詳しく説明するならば
そのような人々を、如来は仏知をもって知る。
彼らを如来は仏眼をもって見る。
彼らは如来によってよく知られている。
彼らはすべてはかりしれない功徳の集積をそなえた者となるだろう。
思議することができず、比較を絶し
はかることもできない無量の功徳の集積をそなえた者となるであろう。
これらの人々はすべて、わが悟りをその肩に担う者であろう。
それはなぜか。
信の劣った人々は、この法門を聞くことができないからである。
”わたくし”を実在視する者、衆生を実在視する者
命あるものを実在視する者、個我を実在視する者
同じくこの法門を聞くことができないからである。
菩薩の誓いをたてない者は、この法門を聞くことも
身につけることも、受持することも、読誦することも、理解することもできない。
そのような道理はありえないのである。

姿形によってわたくしを見る者、音声によってわたくしに従う者は
誤った努力をなす者であり、そのような者は
真の意味でわたくしを見ることはないだろう。
仏は法という観点から見なければならない。
なぜなら、世間を教導する者は、法を身体とするものであるから。
そして、法の本質は知識の対象とはならない。
それは知れらるものではない。
また、どのようにして説き明かすべきか。
それは「説き明かさないように」である。
だから、説き明かさねばならない、と言われる。

星、目の幻覚、ともしび、幻、露、水の泡、夢、稲妻、雲
つくられたものとは、このようなものであると見られねばならない。

以上のように、世尊はお話しになられた。
世界中の者たちは
心が歓喜して、世尊の説かれたことを賞賛した。


「金剛のごとくに摧断するもの」という
聖なる、とうとき『智慧の完成』を終わる。




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