< 禅 と 日本文化 >


<序>

大拙君は私の中学時代からの親しい友の一人である。
七十の老翁尚当時の事を思い浮かべることができる。
君はその頃から他と異なっていた。
弱年にして既に超世間的で深く人生問題について考えていた。
我々が大学へ入る頃、君は一人円覚寺の僧堂に行った。
その頃尚洪川老師が居られたが、すぐ還化せられたので
君は宗演和尚の鉗鎚を受けることとなった。
暫く大学に来た事もあったが、全然雲水同様にして苦修練磨した。
此の如きもの十年、ポール・ケラースの招きに応じてアメリカに行った。
アメリカに居ること又十年余にして四十の頃帰って来た。
それより今日に至るまで
或いは仏典を英訳し、或いは禅について論じ
研究論述、齢古希に及んで未だその窮する所を知らない。
著書等身、君は日本に於いてよりも外国の仏教学者の中によく知られて居るであろう。
君自身は記憶して居られるか否かは知らぬが
君は若い時から仏教は世界に弘むべきだといっていた。
今その言が思い合わされるのである。
君は一見羅漢の如く人間離れをして居るが
而も非常に情に細やかな所がある。
無頓着の様であるが、而も事に忠実で綿密である。
君は学者を以て自から居らないであろうし
又君を目するに単なる学者を以てすべきでないと思うが
何処か淡々としていつも行雲流水の趣を存して居る。
私は多くの友を持ち、多くの人に交わったが
君の如きは稀である。
君は最も豪さうでなくて、最も豪い人かも知れない。
私は思想上、君に負う所が多い。

(西田幾多郎)



禅は初唐即ち八世紀に中国に発達した仏教の一形態である。
その真の始まりはさらに早く、六世紀の初め
南インドから中国に来た菩提達磨から起こったのである。
その教義は大乗仏教の一般教義と変りはない。
その教えるところも、もちろん一般の仏教のそれである。
しかし、禅の目的は
インド・中央アジア、そして中国においても
その発展するにしたがって建設者の教えの周囲に堆積した
いっさいの皮相な見解を除去して
仏陀自身の根本精神を教えんというにある。
これらの「皮相な見解」は儀礼的、教典的であり
かつ民族心理の特殊性のもとづくものといってよい。
禅は仏陀の精神を直接に見ようと欲するのである。

この精神はなんであるか。
この仏教の真髄を成すものはなんであるのか。
これは般若(智慧)と大悲(愛)である。
般若をえれば、われわれは生と世界との根本的の意義を洞徹しえて
たんなる個人的な利益や苦痛に思いわずらうことがなくなる。
大悲がそのとき自在に作用する。
それは「愛」がその利己的な妨げを受けずに
万物におよぶことができるという意味である。

ここに禅の鍛錬法の一風変ったところがあるのだ。
それは真理がどんなものであろうと
身を持って体験することであり
知的作用や体系的な学説に訴えぬということである。
後者は技術の末にかかずらって
その結果皮相的になり、中心事実に到達せぬことになる。
理論化ということは野球をやるときや、工場を建てるときや
各種工業製品を製造するときなどには、結構なことであるかも知れぬが
人間の魂の直接の表現である芸術品を創ったり
そういう技術に熟達したりする場合
また正しく生きる術をえんとする場合には
そういう訳にはゆかぬ。
事実、純正の意味の創作に関連した事柄は
いかなる事でもみな、真に「伝え難き」もの
すなわち論議を主体とする悟性の限界を超えたものである。
それゆえ
禅のモットーは「言葉に頼るな」(不立文字)
というのである。

この点において、禅は科学、または科学的の名によって行なわれる
一切の事物とは反対である。
禅は体験的であり、科学は非体験的である。
非体験的なるものは抽象的であり
個人的経験に対してはあまり関心を持たぬ。
体験的なるものはまったく個人的に属し
その人の経験を背景としなくては意義を持たぬ。
科学は系統化を意味し、禅はまさにその反対である。
言葉は科学と哲学には要るが、禅の場合には妨げとなる。
なぜであるか。
言葉は代表するものであって、実体そのものではない
実体こそ、禅において最も高く評価されるものなのである。
禅において言葉が要るとしても
それは売買における貨幣と同じ価値のものである。

大略すれば、知識には三種ある。
第一は
読んだり聴いたりすることによってうるものである。
われわれはこれを記憶して、平素重要な所有物として持っているもので
いわゆる知識の大部分はこの種のものである。
われわれは地球上をくまなく歩きまわって、親しくこれを調査する訳にはゆかない。
ゆえに、世界の知識については、他人が備えてくれた地図に頼る。
第二は
科学と普通いわれているものである。観察と実験・分析と推理の結果である。
それは前者より強固な基礎を持っているが
ある程度、体験的で経験的なところがあるからであろう。
第三は
直覚的な理解の方法によって達せられるものである。
第二の形態の知識を重んずる人にしたがえば
直覚的な知識は事実に確実な基礎を有せぬから
あまり絶対的な信頼を置くことはできぬという。
しかし、事実としては、いわゆる科学的知識は完璧なものではなくて
それ自身限界性を有するものであるから、異変、とくに個人性異変の起こった場合には
科学と論理はかねて蓄えておいた知識と計較を利用する隙がない
記憶している知識だけでは役に立たぬ。
かかる場合には、精神はあまり咄嗟なので
過去に貯蔵した記憶の一切を喚起することはできないからである。
しかるに一方、直覚的知識はあらゆる種類の信仰
とくに宗教的信仰の基礎を形成しており
最も能率的に危機に応じ能うのである。

禅以外の仏教各派が日本文化におよぼした影響の範囲は
ほとんど日本人の生活の宗教的方面に限られたようだが
ひとり禅はこの範囲を逸脱した。
これは意義深い事実である。
禅は国民の文化生活のあらゆる層の中へ
深くおよんでいる。

”わび”の真意は『貧困』、すなわち消極的にいえば
『時流の社会のうちに、またそれと一緒に、おらぬ』ということである。
貧しいということ、すなわち世間的な事物
(富・力・名に頼っていないこと、しかも、その人の心中には
なにか時代や社会的地位を超えた、最高の価値をもつものの存在を感じること)
これが”わび”を本質的に組成するものである。

神秘的な「自然」の思索に心を安んじて静居し
そして環境全体と同化して、それで満足することの方が
われわれ、少なくともわれわれのうちある人々にとって
心ゆくまで楽しい事柄なのである。

禅の心的習慣は
日本人が土を離れず、いつも自然と親しみ
飾り気のない単純性を味わうことを助けてきた。
禅は生活の表面に存する複雑さを好まぬ。
生命そのものははなはだ単純なものであるが
これを知力で量れば
分析的な眼には比類なき錯綜物の姿となってうつる。
科学を支配するあらゆる手段を使っても
いまなお、生命の神秘は測り知れないのである。

おそらく東洋人の最も特異の気質は
生命を外からではなく、内から把握することであろう。
禅は、まさに、それを掘りあてたのである。

”見わたせば 花も紅葉もなかりけり 浦のとまやの 秋の夕暮”
(藤原定家)
吹流しもひるがえなければ、花火もあがらないようなところに
ただ独り残されているという事
そしてそれが色々と極まりなく変りゆく物の形や物の色の
華やかな眺めの真中であるとすると
実際見る影もない淋しさである。

日本の芸術に著しいいま一つの特色は非相称性である。

日本の芸術的天才が個々の事物をそれ自体で完全なるものとみると同時に
「一」に属する「多」の性質を体現するものとみる
禅の方法に触発されたからだといった方がさらにもっともな説明ではないか。

超俗的美至上主義といえども
禅の「美」論ほどの根本的ではない。
芸術衝動は道徳衝動より原始的であり、生得のものである。
芸術の訴える力は端的に人間性に喰い込む。
道徳は規範的だが芸術は創造的である。
一は外部からの挿入で
一は内部からの抑えがたい表現である。
禅はどうしても芸術と結びついて、道徳と結びつかぬ。
禅は無道徳であっても、無芸術ではありえない。

知性はもともと均衡を欲するものであるが
日本人は不均衡を好む強い傾向によって
ややもすればそれを無視するのである。

非均衡性・非相称性・「一角」性・貧乏性・単純性・さび・わび・孤独性・その他
日本の芸術および文化の最も著しい特性となる同種の観念は
みなすべて「多即一、一即多」という
禅の真理を中心から認識するところに発する。

禅僧それ自身芸術家であり
学者であり、神秘思想家であったこと。

禅の絵画と書を支配する精神は日本人に強い感銘を与えたので
ただちにこれを取り上げて範としたのであった。
そこにはなにか男性的で不屈のものがある。
前代を支配していた温雅優美な風(女性的と称すべき)は
当代の彫刻や書体に表現される男性的な風にとってかえられた。

禅の修業、というよりむしろ禅がその教義を実践する僧院生活には
さらにべつの点が存する。
禅院は通例山林の間に在るので、そこに住むものは「自然」と密接な接触をする。
そして、おのずから親しさと同情をもって「自然」にまなぶことになる。
彼らは鳥や動物や岩や川やその他市井の人々が気づかぬままにある自然を観察する。
彼らの観察に特殊なところは、それが彼らの哲学
むしろ彼らの直観を深く反映することである。
それは単なる博物学者の観察ではなくて
禅僧たちはその観察する対象の生命そのもののなかまで入りこまねばやまぬ。

禅匠のなかには立派な哲学者にはなれなくても
すぐれた芸術家となれる者がしばしなある。

月を見て月と判れば、それで十分だ。

万物は無のなかにある。

絶対的意味における空とは
分析的な論理の方法で達しうる概念ではなくて
竹の直き、花の紅などという体験事実そのままを指すのである。

”極楽も地獄も先ずは 有明の月の心に かかる雲もなし”
(謙信)

”さそはずば くやしからまし桜花 さてこん春は 雪のふるてら”
(信玄)

文殊菩薩の聖なる剣は
生きものを殺すためではなくて
われわれ自身の貪慾・瞋恚・愚癡を殺すためである。
それはわれわれに向かって擬せられる。

単に芸術を技術的に知るだけでは
真にそれを熟達するには不十分である。
その精神に深く入らねばいかぬ。
この精神は
彼の心が生命それ自体の原則と完全に共鳴したときのみ
すなわち、「無心」として知られる「神秘的」な心理状態に達するときのみ、把握される。
仏教の語義からいうと、それは死生の二元論を超越することである。
ここに至れば一切の芸術は禅になってしまうのである。

最も肝心なことは、「心」そのものを洞徹することである。
この洞徹力を持つ人は少なく
われわれの多くはまったくその働きに関して無知である。
しかし、たんなる洞徹では不十分である。
この洞徹力を実生活の機能となさねばならぬ。
実際に喉が乾いているとき、終始、水のことを語って、なんの役に立とう。
火についていかに多くを論議しても、けっして温かくはならぬ。
仏教も儒教も「心」のなんたるかを明らかにするが
「心」が日常生活に輝くようにされなければ
その真理をほんとうに洞徹しているとはいわれない。

考えるな、思い煩うな、分別を持つな
そうすれば心は到るところに行きわたってその全力が働き
つぎつぎと手近の仕事を成就するであろう。

”うつるとも月もおもはずうつすとも水もおもはぬ広沢の池”

剣道においてその技術以外に最も大事なことは
その技を自由に駆使する精神的要素である。
それは「無念」または「無想」という心境である。
これは、太刀を取って相手の前に立った時に
思想・観念・感情などを持たない、という意味ではない。
思想・反省あるいは、すべての愛着を断った意識によって
生来の能力を働かせる意味である。
この心境をまた「無我」といい、利己的思想を抱かず
自分の所得を意識せぬ状態である。

禅徒は仏教の書籍のみならず
儒教や神道の文学類をも印刷したのである。
鎌倉・室町時代(1192〜1333〜1573)は一般に
日本歴史の暗黒時代と考えられているが、事実はそうでない。
禅僧が中国文化を日本にもたらし
後日同化の道を開いたのはこの時代である。
また、とくに日本的と見做しうるものが
この時期を通じて孵化の過程にあった。
俳句・能楽・芝居・造園・生け花・茶の湯
などの始まりがこの時期に求められる。

ほとんどすべての宋代思想家は
少なくともその生涯に一度は禅林にこもった。

一方禅僧もまた同様の儒教の学徒であった。
中国人としての彼らはもとよりそうなるより外なかったのである。
儒教学者と禅匠との唯一の相違は
儒教徒はその哲学の基礎を自国の思想体系においたが
仏教徒は仏教的のシステムを固守して
その語彙は儒教から採用することにした。
じっさい、禅徒は儒教の用語を使って自家の体験を表現したのである。
これら両系統の相違は力点のおきどころに存するといえる。
いわば禅僧は儒教諸原典をインド式に解釈した。
すなわち、多少理想主義的なところがあった。
それから儒教的観点で自分たちの仏典に註釈を加えることも嫌わなかった。
禅はその実践性を儒教から得
儒教は禅の教えを通して、ある点間接にだが
インド的な抽象的思索癖を吸収し
結局、孔子一派の教えに形而上学的な基礎を与えることに成功した。

禅匠は、ある理窟づけに対して
その方が都合がいいと思えば
かならずしも伝統的の解釈にしたがわずに
それによって、自分自身の哲学的構造を打ち立てていいのだ。
禅徒はときとすると儒教徒、ときとすると道教徒
また、ときとすると神道家とさえなりうるのである。
禅的経験は、また
西洋哲学によっても説明することができる。

理論的にいえば
禅は国家主義とは何にも関わりがない。
宗教であるかぎり、その使命は普遍妥当性を有し
その適用の範囲はとくに国民性にかぎられはせぬ。

中国思想には二つの源流
儒教と純粋の道教(すなわち民衆的信仰、迷信に囚われぬもの)がある。
儒教は中国人心理の実践と積極主義を代表するが
道教はその神秘的にして思索的な傾向を代表する。
仏教が後漢時代(世紀64)の始めに中国に入った時
老荘の思想に大いに似通うものがあることを認めた。
が、その当初、仏教は中国思想界においてあまり活動的ではなかった。
その原典を中国語に翻訳することに多くの力を費した。
中国の人々は、仏教を取り入れて
これを自国の思想信仰体系のなかにこなす道を的確にしらなかった。
が、翻訳された仏典を通して彼らは仏教哲学にきわめて深遠高大なもののある事実を
悟ったにちがいない。
第二世紀に般若波羅密経が訳され始めてから
それに深い感銘を受けた思想家たちは
きわめて真摯にその研究に従った。
彼らは「空」の観念を明確に把握することはまだできなかったが
老師の「無」の観念に多少近いものと知った。

禅の茶道に通うところは
いつも物事を単純化せんとするところに在る。
この不必要なものを除き去ることを
禅は究極実在の直覚的把握によって成しとげ
茶は茶室内の喫茶によって典型化せられたものを
生活上のものの上に移すことによって成しとげる。
茶は原始的単純性の洗練美化である。
自然に親しむというその理想を実現するために
茅の屋根の下に身を寄せ
わずか四畳半ではあるが構造と調度に技巧を凝した小室に坐るのである。
禅の狙うところも
人類が己を勿体づけるために工夫したと思われるような
いっさいの人為的な覆いものをはぎとる点にある。
禅がまず知性と闘うのは
知性というものが実用には役立つであろうが
われわれが自分の存在をふかく掘り下げようとするのを妨げるからである。

禅、さらに広くいって宗教は
人がその持っていると考える一切物を
生命をさえ、かき捨てて
最後の存在状態・「本住地」
または「父母未生前本来面目」に帰ることである。
これはわれわれの誰でもなしうることである。

ついに有名な大徳寺の一休和尚(1394〜1481)が
その法を弟子の一人珠光(1422〜1502)に教え
珠光の芸術的天才はこれを発展させて
日本的趣味に取り入れることに成功した。
珠光は、かくして
茶道の創始者となり、芸術の大きな庇護者であった
ときの将軍足利義政(1435〜1490)にそれを教えた。
後に、紹鴎(1503〜1555)と利休
とくに利休がそれを改良して、最後の仕上げを施して
いまの茶の湯、英訳して一般に
”tea-ceremony”または”tea-cult”と知られるものにした。
禅院で実施される本来の著の湯は
いま、巷間に流行している作法とは独立して行なわれる。

調和の”和”は和悦の”和”とも読める。
思うに、この意味の”和”こそ茶の湯の行程全体を支配する精神を
さらによく表しているようだ。

我がなければ心は柔であり、外面の力に反抗を示さぬ。

ここではかかる世俗的な考慮はいっさい風に流す。
平民が貴人と膝を交えて
ともに興に入ったことを慇懃に語り合う。
禅にはもちろん世俗的な区別は許されぬ。
禅僧は社会のあらゆる階級に自由に近づき
誰とでも打ちとける。
社会がわれわれの上に人為的においた羇絆を棄てて
たまには、自由自然に心を向けあって
同類ーそれは動物・植物・無生物などをも含めた
同類とかたらいたいという望みは
人性に深く沁みこんでいるのである。

技術の完成されるのはそれが技術たることを
止めるときのみである。
この時に無技巧の完成が存し
人間の奥底の誠実がおのずから現れるが
これが茶の湯における”敬”の意味である。
敬は、それゆえ、心の誠実か、単純さである。

茶の湯の精神を作る一つと考えられている”清”
日本的心理の寄与であるといってよい。
清は清潔であり、ときとして整頓であり
茶の湯と関係するいかなる事
いかなる場所にもこれを窺うことができる。

「茶の湯の本意は、六根を清くする為なり。
眼に掛物・生花を見、花に香をかぎ、耳に湯音を聴き
口に茶を味わい、手足格を正し、五根清浄なる時、意自ら清浄なり。
畢竟、意を清くする所なり。
我は二六時中茶の湯の心離れず、全く慰み事にあらず。
又、道具は、たけだけ相応にするものなり」
(葉隠第二巻聞書の二)

「侘の本意は清浄無垢の仏世界を表して
此露地草庵に至りて塵芥を払拭し
主客ともの直心の交わりなれば
規矩寸尺式法等あながちに云うべからず。
火を起し湯を沸し茶を喫する迄の事也。
他事有るべからず。是即ち仏心の露出所也。
作法挨拶に拘る故、種々の世間の義に堕して
或は客は主の過ちを伺い譏り、主は客の過ちを嘲る類になりぬ。
此仔細熟得悟了する人を待つに時なし。
趙州を亭主にし、初祖大師を客にして
休居士と此坊が露地の塵を拾う程ならば、一会は調ふべきか」
(南方録)

”寂”は日本の”さび”である。
が、”さび”は静寂より内容が広い。
寂にあたる梵語のSantiは事実「静寂」「平和」「静穏」を意味し
寂はしばしば仏典では「死」、または「涅槃」を指すために用いられてきた。
しかし、この語が茶の湯に用いられる時には
その指すところは「貧困」「単純化」孤独」などにちかく
ここには”さび”は”わび”と同意語となる。

茶人は飾り気ない小庵に住み
思いがけなく客が訪れると、茶を点て、新しい花を生け
客は主の話と餐応に感じ入って、静かな午後を楽しむ。
これが真の茶の湯ではないか。

悟りの原則は事物の真理に到達するために概念に頼らぬことである。
概念は真理を定義するには役だつが
われわれが身をもってそれを知ることには役にたたぬ。
概念的知識はある点ではわれわれを利口にするが
これは皮相なことにすぎぬ。
生きた真理そのものではない。それゆえ、それは創造性がない。
単に死物の蓄積にすぎない。
東洋的な認識論というようなものがあるとすれば
禅はこの点において最も十全にその精神を反響するものといってよい。

悟りは心理学的に言えば「無意識」を意識することである。

真の芸術家は禅匠と同様、事物の妙を会得する法を知った人である。

”ほととぎす 啼きつる方を眺むれば ただ有明の月ぞ残れる”

”ほととぎす ほととぎすとて 明けにけり”

禅の世界は五感、常識、陳腐な道徳観、論理的な議論
を容れる通常の世界と別段変りはない。
ただ禅にはそれらの基をなす原理とか真理とかいうものの直覚がある。

日本人の心の強味は最深の真理を直覚的につかみ
表象を借りてこれをさまざまと現実的に表現することにある。
この目的のために俳句は最も妥当な道具である。

”古池や 蛙とび込む 水の音”

芭蕉がまだその師仏頂和尚のもとで参禅していた頃
ある日、和尚が彼を訪ねてきて問うた。
「近頃どう暮らしていられるか」
芭蕉答えて
「雨過ぎて青苔湿ふ」
仏頂はさらに
「青苔いまだ生ぜざるときの仏法いかん」
芭蕉
「蛙飛び込む水の音」

古い池は亭々たる樹々に囲まれた古刹の境内などによくある。
池のまわりには古びた灌木や藪が枝をのばし葉をしげらせている。
かかる環境が漣もたてぬ池の面に静寂の度を加える。
この静寂が飛び込む蛙に妨げられるとき
妨げそのものが四辺を領する静寂をたかめる。
飛び込む音が反響し、その反響が環境全体の静けさを意識させるのである。
しかし、この意識はその精神が真に世界精神そのものと
一致している人によってのみ覚醒される。
この直観または霊感に声を与えるためには芭蕉が真に偉大な俳人たることを要した。
かようにして、禅をただ閑寂の教えと考える批評家たちは
この点からそれと俳句とを関連させて考えたがる。

俳句は元来直観を反映する表象以外に
思想の表現ということをせぬのである。

「宇宙的無意識」は価値の庫だ。
すでに創られているか、または、創られることになっている価値物の
いっさいはここに貯えられる。
その深みへくぐって行って自分の体験の真珠を持ってくるには
芸術家たることを要する。
そしてまた、人は誰も一種の芸術家である。

”朝顔に つるべとられて 貰い水”

”釣鐘に とまりて眠る 胡蝶哉”

蝶は山腹を一面飾って美わしく匂う花に”ひらひら”と飛んでいた。
彼はいま疲れて、分別癖のある人間が
ふつう蝶と呼ぶ生命形式を持った
その小さい体を運んだ後、翼はしばらくの憩いを求める。
鐘はものうげに垂れ、蝶はそれに止まって疲れたまま眠ってゆく。
やがて振動を感ずるが、それは待ち設けたのでもなければ
待ち設けないものでもなかった。
蝶が現実としてそれを感ずれば前と同じくなんの係わりもなく飛び去ってゆく。
「分別」は少しもせぬ。
それゆえ心配・煩悶・疑惑・躊躇などからはまったく自由である。
言葉を換えていえば、絶対信仰と無畏の生を営むのである。
蝶が「分別」と「小さい信仰」の生活を営むとなすのは人間の心である。
蕪村の句は、この上なく重要な宗教的直覚を真に含んだ俳句である。

”やがて死ぬ けしきはみえず 蝉の声”

蝉は人間などの悩みは知らぬ。
寒くなればいつでも終るべき自分の生命に対して焦らぬ。
啼ける間は生きていて、生きている間は永久の命だ。
無常を思い煩ってなんの益があろう。

芭蕉は僧侶ではなかったが、もっぱら禅を修めた。
おりおり時雨が訪れはじめる晩秋の頃
自然は「永遠的孤絶」の体現である。
樹々は裸になり、山々はきびしい外貌を示しはじめ、水は澄みまさる。
そして、一日の働きに疲れた鳥が塒を指してゆくとき
独り旅人は人生の宿命を想って心が重くなる。
彼の気分は自然のそれとともに動く。
芭蕉は詠ずる。

”旅人と わが名を呼ばん 初しぐれ”

”枯枝に 鴉のとまりけり 秋の暮”

芭蕉にしたがえば
ここで「永遠的孤絶」の精神を指示したものは「風雅」の精神である。
風雅は一般に「生活の洗煉」という意味であるが
これは生活標準の向上という現代的な意味ではない。
それは生活と自然のきよらかな享楽であり
”さび”や”わび”に対する憧れである。
物質的慰安や感覚主義の追求ではない。
風雅の精神は自我と自然の創造的・芸術的精神とが一体となるところから発する。
風雅の人はそれゆえ、花と鳥、岩と水、雨と月を友とする。
芭蕉は彼の日記の一つの前置きから引用したつぎの一節に
自然愛に関するかぎり、いずれもみな風羅坊であったところの
西行・宗祇・雪舟・利休などの芸術家のグループに属するものとして
自分をも分類している。

『百骸九竅の中に物あり、仮に名づけて風羅坊と云う。
真に羅の風に破れ易からんことを云ふにやあらん。
彼れ狂句を好むこと久し、終に生涯の計り事となす。
或時は慎んで倦んで放擲せんことを思ひ
或時は進んで人に勝たん事を誇り
是非胸中に闘うて、是れが為に身安からず。
暫く身を立てん事を願へども、是が為めに支えられ
暫く学んで愚を諭さん事を思へども、是が為めに破られ
終に無能無芸にして唯此一筋に繋がる。
西行の和歌に於ける、宗祇の連歌に於ける
雪舟の絵に於ける、利休が茶に於ける
其貫道するものは一なり。
然かも風雅に於ける、造花に従ひて四時を友とす。
見る処花に有らずと云ふこと無し。
思ふ処月に有らずと云ふこと無し。
思ひ花に有らざる時は夷狄に斉し、心花に有らざる時は鳥獣に類す。
夷狄を出て鳥獣を離れて、造化に従ひ造化に帰れとなり』





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